天正妖魔異伝 第九話 影縫い

第九話:影縫い

 

一方、志津花と沙音も道を急いでいる。二人が諏訪を立って暫くして勝頼率いる本軍が諏訪に着陣した。志津花と沙音は主街道を避けていたために危うく入れ違いになるところであったが志津花の機転でともかく諏訪に引き返した。諏訪に着陣した勝頼であったが既に南信の中心地とも云うべき飯田城を失っており、駿河、上野方面の戦況も芳しくなかった。

「勝頼殿にどうにか接触したい」

志津花は足掻くように思ったが容易に会えるはずもなかった。戦で人気が荒れている。不容易に接触を試みて露見すれば間違いなく殺されるであろう。

しかし、急がねば勝頼が死んでしまう。勝頼の無念の死こそ妖魔の望むものであり、志津花がもっとも忌むものであった。忍である沙音は夜陰に紛れて勝頼の寝所に忍び込むことは容易であるが、この場合志津花が勝頼に会わねば意味がない。沙音が侵入しても恐らく勝頼は妖魔の話を信じないばかりか織田の刺客とみて騒ぎ出すに相違なかった。もっとも言霊の一族である志津花の話でさえ勝頼は信じるかどうか疑わしい。

「こうなったらどさくさに紛れて勝頼を落ち延びさせるしか手がなさそうね」

この沙音の提案に志津花は黙って頷いた。志津花は胸騒ぎがしてならなかった。この信州で妖魔の悲願が叶うのではなかろうか。考え出すと志津花はいてもたってもいられなくなった。しかし、八方塞がりであることは変わらなかった。

二月二十八日。勝頼は着陣した諏訪を引き払った。

その翌日。

織田の軍勢は伊那の高遠城を包囲している。包囲を開始したのは三月一日である。籠城する武田側の武将は仁科盛信である。勝頼の異母弟であり信玄の五男である。南信の小領主が先を競うように織田に靡く中、御家門である盛信は高遠に籠り頑強に抵抗していた。

しかし、織田軍の猛攻の前に高遠城も陥落。

これによって武田軍は完全に崩壊したと言っていい。

既に勝頼の周囲には1000人ほどの兵しかいない。亡父信玄が生涯をかけて築いた武田の勢威は織田信長という名前に象徴される時勢の前に脆くも崩れ去った。勝頼自身、なぜこうも容易く崩壊していくのか理解できなかったであろう。いや、理解できなかったからこそ、織田信長に破れるのである。

志津花と沙音は急いだ。

急がねば勝頼が死ぬ。

二人が急いで諏訪を発とうとした時、志津花は道を急ぐ焔士郎を見た。

「あ!」

思わず叫んでしまった志津花は焔士郎を目指して駆け出した。

「焔士郎様!」

志津花が近付くと隆海のでかい体と相変わらず妖気を漂わしている迅十郎もいた。

諏訪には既に織田の先鋒隊が入り込んで来ている。諏訪の宿場町がきな臭くなっている。どこかで何かが燃えているかも知れなかった。志津花は後日、武田の支配下にあった諏訪大社が織田軍の手によって燃やされたということを聞かされた。

焔士郎は小柄な少女が自分の名前を呼びながら近付いてくるのをみて溜め息をついてしまった。

焔士郎は性分として単独行動を好む。

それは最早伊賀の忍の宿命とも云うべき個癖であった。

「おほ!」

機嫌が良さそうな声を出したのは隆海だった。隆海の後ろには先の戦いで捕らえた遠野の忍である霞がいた。霞の姿を見て志津花は思わず怪訝そうな顔をした。霞は捕らえられた時は忍装束であったが今は善光寺詣りに行く町娘の姿になっている。

「誰です?」

志津花は焔士郎との再会を喜ぶよりも先に霞という存在に対して警戒してしまった。志津花自身それが焔士郎に対する嫉妬からきているとは不覚にも気付いていない。

「お前には関係ない」

相変わらず素っ気ない焔士郎に志津花は腹を立ててしまった。

「関係なくなどありませぬ」

「よお、嬢ちゃん。犬山以来だな」

迅十郎が屈託なく志津花に笑いかけた。しかしその声も逆上している志津花の耳には届かない。

「我等は眼中に無い様子でござる」

隆海が同情に溢れた顔つきで迅十郎の肩をぽんぽんと叩いた。

「その者、忍か?」

いつの間にか焔士郎の傍らにいた沙音が指すような視線を霞に注ぎながら焔士郎に訊ねた。

「ああ、木曽の辺りで捕らえた」

「他にも二人いてな。それが大層美しい」

横から隆海が割り込んできた。隆海は焔士郎に代わってことの経緯を簡単に説明した。木曽で襲われその時に捕らえた件、そして次の宿場で気を失った霞を目覚めさせ焔士郎があれやこれやと尋問したが、霞は一言も喋らないこと、焔士郎は放逐しようとしたが、隆海がそれを憐れんだこと、等を簡潔に語った。

「他の二人はどうした?」

「逃げた」

焔士郎が短くこたえた。

逃げたと聞いて、沙音は忍としてこの忍がどのような運命に陥るかを考えてしまっていた。目の前にいる女忍者は生きている。忍者が敵方に捕らえられるのは最大の屈辱と言っていい。普通ならば自害していてもおかしくない。

策略か。

沙音は同じ忍であるためそのように勘繰った。当然であろう。もしかしたら焔士郎等を何らかの策略に陥れるためにあえて捕まった可能性もある。

「焔士郎」

「ふむ」

「この女を殺せ」

沙音は短く他の者に聞き取れぬように低く焔士郎に言った。

「分かっている。しかし背後にいる者を誘き出すのに使い道はあるかもしれない」

「お前らしくない」

「黙れ。俺はまだ鞍馬の天狗を信用したわけではない」

ふん、と沙音は短く嘆息すると志津花の方を向いた。志津花は相変わらず刺すような視線を霞に注いでいる。志津花の胸中では焔士郎と霞が男女の間柄になってはしないかと疑っているのである。

(それは困ります)

志津花は沙音の視線に気付いて慌てて焔士郎の方を向いた。急いで取り繕っている自分を客観的に見た志津花は自分自身がわからなかった。それが焔士郎に対する恋だと気付くほど彼女はまだ成熟していない。

「焔士郎様」

志津花は狼狽を隠すため、やや強い語調で焔士郎の名を呼んだ。

「諏訪へは何をしに?」

焔士郎に志津花は目的を聞いた。

「勝頼を落ち延びさせる」

焔士郎にしては珍しくは素直に目的を話した。それが犬山を発した理由であり明智光秀配下の右近の指図であった。

「では、目的は同じですね」

「…」

焔士郎は志津花の顔をじっと見つめながら思案した。いつの間にか妖魔を退治ることに巻き込まれた自分を少し嘲笑したくなったが、熊野の火焔術を体得した者の宿命かもしれず、不思議と腹はたたなかった。それよりも木曽で逃がした残りの女忍者や犬山で相対した風魔や戸隠の忍のことが気がかりであった。恐らく襲ってくるであろう。味方は一人でも多い方がいい。

「目的が同じなら協力しても良い」

焔士郎の言葉に志津花の顔が綻んだ。黒目の大きな瞳が少し潤んでいる。その瞳に焔士郎は疼くように欲情したが抑えた。

「おい」

焔士郎の思案を遮るように迅十郎が声をかけた。

「早々に武田軍の後を追った方がいいぜ。既に織田が来ている」

迅十郎が顎で指した方向にちらほら織田軍の先鋒隊らしき人影が見え隠れしていた。一行は迅十郎に促されるままに街道から外れた。そのときに霞は織田軍の先鋒隊の一人に目で合図を送っていた。その姿を焔士郎は目敏く見つけていたが黙っていた。

毒を食らわば皿までだ、と焔士郎は思っていた。焔士郎の胸中にはもしかしたら何処かで霞等を説得して対妖魔の戦いに引き込もうという魂胆があるかもしれなかった。妖魔を退治る術者である可能性のある氷術使いの遠野の忍を敵にはしたくないのである。

「さあて兵衛さんよ、お仲間の気配はするかい?」

迅十郎が腰から太刀を鞘ぐるみ抜くと太刀に話しかけた。焔士郎等は慣れきっているが、捕らえられて間もない霞は刀に話しかける迅十郎を見てぎょっとした。やがて、

「仲間とは人聞きが悪い」

と兵衛が悪態をついた。その声は紛れもなく刀から聞こえるのである。

「南東の方向に妖魔の気配は感じる」

「私も同じですが…」

同じく妖魔の気配を感じることのできる志津花も同意したが、語尾を濁らせた。

「どうかしたのか?」

焔士郎が志津花に問うた。

「いえ」

志津花は何にもない素振りを見せたが、内心では不安でいっぱいであった。先日諏訪で沙音と共に戦ったあの二体の妖魔の力はこれまでの妖魔とは明らかに異なっていた。その妖魔の気配を確かに甲州の方に感じるのだが、あの時とは明らかに感じる瘴気が弱いのである。すなわち、どちらか一方の妖魔しか甲州にはいないのである。妖魔の目的は怨霊の誕生にある。怨霊の資格者には今のこの世に武田勝頼がもっとも適している。妖魔が勝頼を怨霊とすべく暗躍していることは間違いない。しかし、本当にそれが妖魔の目的であろうか。

ともかく志津花は目の前にで繰り広げられつつある妖魔の野望を阻止することが先決であると自分に言い聞かせ、勝頼のもとへ急いだ。


場面は犬山に戻る。

数日前まで自信たっぷりであった不知火藤兵衛は戦慄していた。

毎日配下の忍が一人ずつ殺されていくのである。

今朝も一人、背中から一突きにされて殺されていた。殺された忍は伊賀衆の中でも抜きん出た手練れであった。背中から一突きに刺されて不覚をとるような忍ではない。しかもその死体は藤兵衛が焔士郎から預かっている棟割長屋のすぐそばに捨てられているのである。明らかに敵は藤兵衛が伊賀衆を宰領していることとそこにいることを知っている証拠であった。切断された腕が庭に落ちていることもあった。

(ワシを精神的に追い込むつもりじゃな)

その手には乗らぬ。

3月1日の夕刻、藤兵衛は放下師の風体に扮して棟割長屋を出た。

藤兵衛がこのように表に出るのは焔士郎から犬山を任されてから初めてのことであった。

予想した通り、藤兵衛が長屋を出た直後から粘つくような視線が藤兵衛の後頭部に注がれているのを感じた。

(ふふふ、果たして敵は何人かの?)

藤兵衛は犬山の城下をそぞろに歩きながら背後の気配を探りつつどこかで楽しんでいた。忍の世界に身をおいて生涯を送ってきた。この程度の修羅場は日常茶飯事であり、藤兵衛の心のなかにはそれを楽しむゆとりもある。

しかし、藤兵衛は背後の気配を探っているうちに相対している忍の業が並みのもではないことに気付き始めた。

背後の視線は時に複数になり、時にひとつにもなる。しかも、すぐ背後にその気配を感じるときもあり、冷や汗を流す瞬間もあった。

藤兵衛は知らず知らずのうちに相手の術中に陥っていることに不覚にも気付いていない。

(これは…)

藤兵衛が気づいたときは既に相手の忍によって郊外の人気のない草原に誘い込まれていた。

「ふふふ、この不知火藤兵衛、不覚であったわ」

放下師の装束を捨てて忍装束に改めた。相手の術中に落ちたのは半ば作戦であり、半ば不覚であった。どちらにせよ、風魔の忍と伊賀の忍が犬山の郊外で忍の技を競おうとしていることに違いはない。

陽が西に傾きつつある。

藤兵衛から見て夕陽を背にいつの間にか一人の忍者がいた。

「お初にお目にかかる。某、風魔が忍道庵でござる」

「名乗らぬともワシの名は存じておろう」

「いかにも。奥伊賀の不知火藤兵衛殿」

「ふふふ」

藤兵衛はこれから命の駆け引きをしようというのに顔が緩んでしまうことを制御できなかった。しかし、それでも風魔が一対一で勝負を挑んでくるとは思えない。相手は放胆にも姿を曝け出しているのである。道庵の配下の忍が何処かに密かに藤兵衛を狙っているに違いない。藤兵衛は道庵に視線を注ぎつつも周囲の気配を探ったが風魔の気配は容易に探れない。

「参る」

道庵は藤兵衛の注意がほんの僅かながら下がった瞬間を見逃さずその隙をついて一足飛びに藤兵衛に迫ると斬撃を浴びせた。

藤兵衛は油断を衝かれたわけではなかったが、夕陽を背に迫る道庵に対して遅れをとったのは事実であった。藤兵衛はとっさに刀を抜かずにひらりとかわした。かわしつつ、草原に臥せて姿を眩ました。

「!」

「どうした影縫いの道庵」

藤兵衛の余裕に満ちた声が聞こえる。夕陽がもうじき完全に沈もうとしている。

「おぬしの影縫いの術は陽が沈んでしまえば毛ほどの役にも立つまい」

草が揺れた。

その場所に道庵の配下が投じた手矢が突き刺さった。

「ふふふ配下の忍は三人か」

藤兵衛の不気味な声がした直後、呻き声と共に一人の忍が道庵の背後で立ちあがり、やがて倒れた。喉が掻き切られている。恐らく藤兵衛がその忍の背後から匕首でやったものと思われる。

「…」

道庵は沈黙している。

無論、藤兵衛は忍の一人を斃した直後に位置を変えている。変えながら、道庵の動きを気配で察しようとしている。同時に道庵配下の忍の位置を見定めるべく気配を探ることも怠っていない。

老練、というより老獪であった。

陽が西の山並みに向こうへ沈もうとしている。大地が赤く焦がされたように染め上げられている。丈の低い葦の中の道庵の影が長く伸びている。

相手は影を操る術者である。藤兵衛は道庵の影を避けつつ配下の忍の位置をほぼ特定していた。

(傍らの梢に一人、あの岩影にもう一人)

道庵は地面にさらに低く這いつくばると、地面をばんと叩いた。次の瞬間、木立の上にいた。その木立は道庵配下の忍が潜んでいる梢のさらに上である。とても老齢とは思えない動きであった。

「!」

道庵配下の忍が藤兵衛に気付いた直後、背後から首を締め上げられた。暫くして動かなくなった。藤兵衛は鮮やかに扼殺した。

藤兵衛が扼殺した忍から手を離すと梢からずるりと落ちて大きい音を立てた。そこへ道庵ともう一人の忍が放った手矢が殺到した。無論、串刺しにされたのは藤兵衛によって殺された風魔の忍である。

陽がほぼ沈みかけている。

藤兵衛は時間を稼いでいる。陽が沈み、闇が周囲を覆ってしまえば影は生まれない。影を操る道庵にとって夜の闇は不利になる材料でしかなかった。

道庵は相変わらず姿を晒したまま動かない。必死に藤兵衛の気配を探っている。

西の山並みに陽が吸い込まれるように消えかける頃、岩影の忍の額に藤兵衛の十字手裏剣がぐさりと刺さった。

風魔の忍が額から血を噴き出しながらゆっくりと倒れた。それと同時に陽が沈み周囲は墨を流したように闇に包まれていく。

「どうだ道庵とやら、お主の配下の忍を全て殺した上に夜の帳が辺りを包んでおる。もうお主の自慢の術も使えまい」

藤兵衛は道庵を挑発しつつ葦の原に立ち尽くす道庵の背後に迫りつつあった。

「ふははははははは!」

藤兵衛が小太刀を振りかざして立ち上がった直後に道庵が哄笑した。

「!」

「藤兵衛、時間稼ぎをしていたのは御主ではない。我よ!」

道庵が素早く念を結んだ。

「風魔忍法、影呪縛」

「しまった!!!」

道庵は察した。道庵の術が影を縫い相手の動きを封じるだけの術であると思い込んでいた。道庵にとって夜の闇そのものが味方であった。いや、なお正確に言えば、夜と言うものは大地が太陽の影に入るということであるため、闇そのものが影であり、操ることが出来るのである。

藤兵衛が危機を察して跳躍するよりも早く大地がにゅうっと盛り上がり藤兵衛の足を絡めた。いや大地ではなく闇が盛り上がったと言うべきか。

闇は藤兵衛の足から腰、さらに胴を包み込みそれだけではなく藤兵衛の小さな体ごと持ち上げてしまった。

「ぬん!」

道庵がさらに念を込めると闇が藤兵衛の体を締め上げた。藤兵衛はがんじがらめにされて仰向けにされた。

「ぐお」

藤兵衛の口から血が滴った。

「老人の悪い癖だ。直ぐに歳下の術者を侮る。夜が影そのものだと気付かなかった御主の敗けだ」

道庵は太刀を抜きながらゆっくりと空中で縛り上げられている藤兵衛の直ぐ下に歩み寄った。

「待て」

道庵を制したのは藤兵衛ではなかった。いつの間にか道庵の背後に光秀配下の忍を宰領している右近がそこにいた。

「…」

藤兵衛は縛り上げられているため声がでなかったが、不覚にも右近が近付いていることに気付かなかった。道庵を侮ったことといい右近の気配を探れなかったことといい藤兵衛にとって屈辱の多いことであった。

(老いとはこういうことか)

藤兵衛は死を眼前にして自らの敗因を顧慮していた。死を最早決している。

「右近殿、この男は危険でござる。ここで殺すにこしたことはない」

「確かに。しかし赤目焔士郎の方が、質が悪い。そこでこの不知火藤兵衛を利用するのだ」

道庵は訝しんだ。奥伊賀の藤兵衛がそう簡単に籠絡できようとは思えない。

「ふん。拙者に考えがある。そいつをはなせ」

道庵は暫く考えていたが、やがて意を決すると影呪縛を解いた。どさりと藤兵衛の体が地に落ちた。

「どうするつもりだ?」

「考えがあると言ったであろう。お主は赤目焔士郎を追え。最早犬山での忍決戦はお主ら風魔衆の勝ちだ」

「…」

道庵はどうにもこの右近が苦手であった。忍を明らかに見下している。忍である道庵はそのような扱いには慣れきってもいるし耐えるだけの精神力を持っている。しかし、右近のそれには何か異なるモノを感じるのである。それが何か見定めがつかないために道庵は常にこの右近をどこかで警戒している。

「わかった。焔士郎を追おう」

道庵はそう言い残すと夜の闇の中に吸い込まれるように消えていった。

藤兵衛は影によって縛られた時に右腕の骨とあばら骨の数本を折られている。痛みは辛くはなかったが動けない。

右近は動けずに地面に転がっている藤兵衛に歩み寄ると冷厳と見下ろした。

「裏切り者め、と言いたいような顔だな」

裏切り者。

確かに右近は裏切っている。しかし、藤兵衛の胸中その事に関して特別に侮蔑したり憎んだりと言うことは無いかあったとしても希薄であった。伊賀の忍とはそういうことに極めてドライである。これが正規の武士から忌み嫌われる伊賀衆の宿命であった。故に右近の推量は間違っているが、その事に藤兵衛は少しの疑問を感じた。

(こいつは忍ではない)

かといって一般の武士とも違うのである。藤兵衛は右近の正体を掴みかねていた。

「ふふふ、拙者はもとより十兵衛光秀を利用しているに過ぎないのだ。我が主の命によってな」

右近は藤兵衛の胸ぐらを掴むと軽々と持ち上げた。急に動かされたために骨折した箇所が身を切られたように痛んだ。苦痛にさすがの藤兵衛も顔が歪んだ。

改めて藤兵衛は右近の顔を見た。

犬山の棟割長屋で幾度か見かけたことがあるが、その時とは明らかに印象が異なる。顔は特徴の無いのが特徴といったようにどこにでもあるような顔である。

「忍は滅ぶ。それは信長の手ではなく我らの手によって滅ぼされるのだ」

右近はやにわに藤兵衛の顔を掴んだ。

藤兵衛はその時、右近の正体が知れた。何故なら藤兵衛の顔を掴んでいる右近の手が人間のそれではなかったからである。

赤銅色の肌に禍禍しい爪、それに放たれる瘴気によって掴まれた藤兵衛は焼かれるような痛みを感じた。

「何をする気だ!!」

気力を振り絞って藤兵衛は叫んだ。

「今に分かるさ」

右近はニヤリと笑った。最早その顔も妖魔そのものであった。

右近は妖魔であった。

やがて、闇夜の葦の原に藤兵衛の叫び声が響いた。

同刻、異なる場所。

焔士郎は勝頼を求めて道を急いでいる。ふと、呼ばれた気がして焔士郎は後ろに振り向いた。

「どうしました?」

志津花が焔士郎を気にして脚を止めた。焔士郎が見るとそこにあどけない黒目の大きな瞳があった。

「いや、何でもない。急ごうもうじき陽もくれる」

「はい」

焔士郎は再び脚を早めた。迅十郎と隆海の背中があった。さらに志津花を守るように沙音がいる。そして何も言わずについてきている遠野の忍である霞もいた。

(今、師匠の声が聞こえた気がしたが…)

焔士郎は気のせいだと自分に言い聞かせた。

天正妖魔異伝 第八話 天正忍合戦

第八話:天正忍合戦

 

志津香と沙音の二人が甲州に向かった頃、一人の男が諏訪に入った。

よれよれの衣服に似合わぬ立派な拵えの大小を腰に差している。

伊庭迅十郎であった。

「おう、あれを見ろ兵衛。湖だぞ、ようやく甲州に着いたわ」

「湖があれば甲州なのか?」

「細かいことを気にするなよ」

「気にするわさ、お前の方向感覚の無さは比類がないでの」

迅十郎は自信ありげに諏訪の宿場町に入ると、適当に宿を見つけ、かまちで草鞋を脱ぎながら宿の主にさりげなくここは甲州の何処かと問うた。

「…」

宿の主が不思議そうな顔で迅十郎を見つめている。

「お戯れはよしてください、ここは信州の諏訪ですよ」

次は迅十郎が不思議そうな顔をする番であった。

「ではあの湖は?」

「はい、諏訪の湖です」

「道々に武田家の武者がおるではないか」

「織田との戦でございます」

迅十郎は思わず絶句してしまった。

犬山で焔士郎らと別れた後、再び山中をぐるぐると回るように歩いた。東の方向で何となく妖魔がざわついている、という兵衛の言葉に従って何となく甲州を目指していたが、肝心の足である迅十郎の類いまれなる破壊的方向音痴のお陰で一時は越中にいた。それでも諦めずに歩き続けようやく甲州にたどり着いたと思ったらそこは甲州だと言う。迅十郎の頭の中の地図では越中の南は信州を通り越して甲州ということになっているらしい。

迅十郎はがくりと頭を垂れてしまった。兵衛は笑いをこらえている。直ぐに迅十郎は立ち直った。

「そもそも甲州を明確に目指していたわけではない!」

と、自分に迅十郎は言い聞かせ、部屋に入るとごろりと寝転がった。兵衛もそれもそうだと感じながら刀の中で大人しくしていた。兵衛は感じていた。ただならぬ、同族の気配を。

それは先に志津花や沙音と激闘を繰り広げた邪眼と羅焦という妖魔の気配であったが、兵衛にはさすがにそこまでは分からない。

兵衛が気づくと迅十郎が隣室に通じる襖を少しだけ開けて覗いていた。

「おぬし、何をしている?」

「うるさい、静かにしろ」

兵衛は自分の声が聞こえるものにしか聞こえないのに静かにしろと言う迅十郎が可笑しかったが、覗き見している迅十郎の悪趣味に辟易した。

「何が見える?」

兵衛もついつい迅十郎が何を覗き見しているのかが気になった。

「別嬪だぜ、あらぁ」

迅十郎が襖をそっと閉めて戻ってきた。

「別嬪?女がいるのか?」

兵衛の問いに迅十郎は黙って頷いた。そして再び襖をそっと開けて再び覗きだした。兵衛は溜め息をついた。迅十郎という男は、腕は立つくせに方向音痴と女に極端に弱いという欠点がある。もっともその欠点が迅十郎の愛嬌になっている。天性が前向きで明朗な質であるため、陰湿な印象を周囲には与えない。

迅十郎が覗き見している隣室には確かに女性がいた。それも三人連れである。顔形が何処か似通っているのは姉妹かもしれなかった。

翌朝、迅十郎は諏訪を発つべく宿の玄関先で準備をしていると、隣室で宿泊していた三姉妹も同じように準備をしていた。

「お武家様はどちらへ」

末女と思われるまだ顔に童臭の残る娘が迅十郎に問うた。迅十郎が見ると吸い込まれそうな美しさであった。上方には少ない目鼻立ちのくっきりした美人である。迅十郎は一瞬で骨抜きにされてしまった。

「行くあてのない旅路でござる」

迅十郎は必要もないのに格好をつけてしまった。もっともこの時代に迅十郎の台詞が気障ったらしく女性に聞こえるかどうかは筆者にも迅十郎にも分からない。

「あの…」

末女が何かを言いかけるのを長女らしい、淑やかな女が制した。

「お武家様に迷惑でしょう?よしなさい、お雪」

お雪と呼ばれた末女は不服そうな顔を長女に向けた。

「でも、雹お姉さま…」

長女の名前は雹というらしい。変わった名前だな、と迅十郎は思ったが長女の類いまれなる美しさに鼻の下がすっかり伸びきってしまっている。

「いえ、迷惑ではござらぬよ」

迅十郎は再び格好をつけた。

「ではあの、道中ご一緒させてもらってもよろしゅうございますか?」

雪が迅十郎の手をとるように云った。

「どちらへ向かうのでござるか?」

「美濃でございます」

美濃。

迅十郎はそこから来た。随分遠回りしたが、来た道を戻ることになる。

「雹お姉さま、雪があのように言い出すと、何を言っても無駄ですわ」

さっさと旅支度を終えている次女が雹の耳に口を寄せて云った。

「そうね、霞」

次女の名は霞というらしかった。誇りの高そうな長女雹、童臭の残る末女雪、それに流れるような仕草の端々に妖艶な色気を醸し出している次女霞。

迅十郎は旅路に待ち受ける艶めいた事々を思うと、それだけで男子の鉄腸が蕩け行くのを感じる。すっかり骨抜きにされつつある迅十郎を見て兵衛は大きな溜め息をついた。

ようするに迅十郎は三姉妹の旅路における護衛を頼まれたに過ぎない。だが、迅十郎は意気軒昂と道を歩いた。迅十郎の頭の中は今宵の臥所の中に跳躍してしまっている。地に足が完全についていなかった。


「遠藤式部殿はおられるか」

嗄れた声が犬山の武家長屋の前でそのように呼ばわった。天正十年の二月二十日である。この間も戦は進行しているが、信長はまだ出馬していない。

「誰だ?」

隆海が巨体をゆすって奥から出てきた。隆海の背丈の半分ほどしかない老爺がそこにいた。

「遠藤式部殿はおられるか」

もう一度、老爺は云った。

「おう、式部殿か、しばし待たれよ」

老爺が吹き飛んでしまいそうな大声で隆海がそういうと長屋の奥へ焔士郎を呼びに向かった。焔士郎はさっきまで奥でごろごろしていたはずであった。

隆海が焔士郎のいた部屋に入ると既にそこに老爺が端座していた。焔士郎も姿勢を正して座っていた。老爺がゆっくりと隆海を見た。

「式部殿はおられるか」

にこりと笑いながら隆海に云った。隆海は面喰らったが、少してから哄笑した。

「おう、おぬし確か安土で一度見ておる。あの時の老爺であったか」

隆海もどしりと座った。

「無礼仕った。不知火藤兵衛でござる」

「すまぬ隆海、師匠は人をからかうのが好きでな」

焔士郎が隆海に詫びた。無愛想な焔士郎が謝罪を述べたことに隆海は驚いた。

「焔士郎、お主の望み通り、安土から伊賀甲賀の手練れを選りすぐって連れてきたぞ」

藤兵衛が焔士郎に向き直って云った。コクりと焔士郎は頷いた。

「焔士郎、相手は手強いか?」

「…」

焔士郎は暫くの沈黙の後、再び頷いた。

「相手は風魔と戸隠。その両派がそれぞれ屈指の術者を犬山に送り込んできている」

ニヤリと藤兵衛は笑った。

「面白い」

藤兵衛は目を細めて、奥伊賀衆の真髄を風魔戸隠の連中に見せつけてくれる、というと立ち上がった。背丈は隆海の胸ぐらいである。さっきは半分ほどに感じたことに隆海は再び狐につままれたような気がした。

「師匠、奴等を侮るなよ」

「奥伊賀きっての使い手である赤目焔士郎ともあろう者が、臆したか?」

「…」

焔士郎は沈黙した。師匠をじっと見つめている。

「ワシに任せておけ。して焔士郎、お主はどうする?」

「俺は甲州へ向かう」

「ほう」

これは右近を通じて伝えられた光秀の指図でもあった。織田と武田が開戦したため、光秀としては武田と戦をしつつも焔士郎のような忍を用いて勝頼を救わねばならない。さらに欲を言うと妖魔をも討ち果たしたい。風魔戸隠の忍衆を相手にしている場合ではないのである。

「心得た」

そう言うと藤兵衛は立ち上がった。

「して、御坊の名前をまだ聞いておらなんだな」

藤兵衛が相好を崩して隆海に訊ねた。

「これは無礼仕った。拙僧は隆海という拙い坊主でござる」

隆海が丁寧に頭を下げて再び上げると既にそこに藤兵衛はいなかった。隆海は気の毒なくらいに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

「すまぬ隆海。師匠の悪い癖だ。素人相手に術を披露したくなるのだ」

焔士郎が詫びた。

当の藤兵衛は何てことはなく焔士郎や隆海がいる部屋の天井に虫のように張り付いているだけである。藤兵衛は隆海が忍の技に感嘆しているのを見届けると満足した表情をした。そして天井の板を音も立てずにはずすとその中に消えていった。無論、素人にはその気配を察することは不可能である。しかし同類の焔士郎には手に取るように分かる。焔士郎は藤兵衛の気配が遠くになるまで待ってから立ち上がった。

「我等も急ごう。この戦、直ぐに決するぞ」

「心得た」

数刻後、焔士郎と隆海は東山道の道中にあった。

犬山に残ることになった藤兵衛は宿の一室で愉悦を抑えかねていた。東西の忍衆同士がこの犬山で激突しようとしている。奥伊賀の癖のある忍衆を束ね、歴史の暗部のさらにその影の部分を縫うように今まで生きてきた。奥伊賀衆、本来であれば妖魔退治を生業とせねばならない一族であるはずなのに、既にその業は廃れ、表の伊賀衆のような生き方をせざるを得なかった。藤兵衛の一生はそのようにして幕を閉じようとしていた。しかし、先年織田信長によって伊賀が滅ぼされた。それによって藤兵衛等のような奥伊賀衆にも需要が巡ってきた。雇い主が織田家というのがどこかに皮肉を感じさせるが、もともと奥伊賀衆には忠義という観念が低く、己の技倆を高く評価して高い値をつけてくれる相手に雇われるのが常であった。そのため、藤兵衛にも焔士郎にも心に疼痛を感じることはない。

(風魔相手に一暴れしてやろう)

藤兵衛は楽しみでさえあった。数日後、犬山が忍の血で赤く染まることになろうとは当の藤兵衛は露ほども分かっていなかった。


犬山の郊外。

山間の一角に朽ち果てた廃寺がある。瓦は落ち、草木の生えるままになっている。壁も半ば崩れており、人が住むには耐えられない。まさに人を化かす狐狸の棲みかになりそうな廃寺であるが、そのような廃寺であるがゆえに忍の者にとっては格好の隠れ家になり得る。

その廃寺の暗闇の中に一人の男がうずくまっている。顔を怪我でもしたのか包帯が巻かれている。わずかに瞳が除いているだけで顔の造作までは判別がつかない。

その包帯男が、ふと顔を上げた。

いつの間にか目の前にもう一人の男がうずくまっていた。

「道庵か…」

後から廃寺に入ってきたのは紛れもなく道庵であった。

「顔は痛むか?」

道庵が包帯男を案じた。

「痛むわ。顔よりもこの戸隠四天王の一人、蜘蛛糸の朱知の心がな」

蜘蛛糸の朱知。

戸隠四天王最強の男である。先に焔士郎と戦った時、相手を侮り、顔を焼かれてしまっている。そんな朱知を冷厳な眼差しで道庵は見つめている。

「お主の顔を焼いた赤目焔士郎が甲州へ向かった」

その声に朱知は少し顔を上げた。

「それに伴って安土から甲賀伊賀の忍衆が犬山に来ている」

「道庵、何を言いたい?」

「戸隠四天王は甲州へ向かった赤目焔士郎を追ってもらいたい」

やにわに朱知は立ち上がった。

「言われるまでもない」

包帯にくるまれた顔が笑ったようであった。その笑みが何を意味するのか。焔士郎に復讐することの愉悦を押さえかねているのか。

「犬山にいる甲賀や伊賀の忍衆は風魔に任せておけ」

コクりと朱知は頷いた。

次の瞬間、朱知の姿は忽然と消えていた。

驚くべき光景に忍である道庵は動じない。既に道庵はどのようにして犬山に集結している不知火藤兵衛率いる忍衆を撃退するかを思案していた。

廃寺の今にも崩れ落ちそうな屋根の上で朱知は指笛を鳴らした。それを合図にたちまち忍装束を纏った戸隠四天王が集結した。

甲州へ向かった赤目焔士郎を追う」

「赤目焔士郎を殺すのじゃな蜘蛛糸の朱知よ」

「そうだ、蛇蝎針の十三」

「この蟷螂鎌の兼続、腕が鳴るわ」

「兼続よ、赤目焔士郎を侮るな。侮ったが故の朱知のあの顔じゃ」

「蜻蛉羽の青子、いうな」

朱知が喉の奥で笑った。

蜘蛛に蛇蝎に蟷螂そして蜻蛉。戸隠四天王はその異名に虫の名を冠しているようであった。四天王の筆頭である朱知の合図で再び四人は散った。赤目焔士郎を追うためである。

四天王が散ったことを確かめると廃寺から道庵が出てきた。するとそれを待っていたかのように廃寺の正面にある竹藪から一人の武士が出てきた。背の低い武士だった。

「道庵、遠野の忍はまだか?」

「既に信州に入っていると聞き及んでいます」

「左京亮殿は?」

「その後、会っておりませぬ」

「相変わらず、得体の知れぬお方だ」

その時、風が吹いた。雲に隠れていた月が露出し道庵と武士を照らした。その照らされた顔は明智光秀の元で忍を裁量している右近のものであった。


焔士郎は東山道を急いでいる。

織田と武田の戦は早く勝敗が決しそうであった。無論、武田には万に一つの勝ち目はない。既に武田勝頼の声望は地に落ちきっている。織田軍団が信州に雪崩れ込むと争うように武田家にとっての外様である小領主が織田家に靡いている。織田軍団は無人の野を行くが如く信州を蹂躙している。

早く勝頼に接触しないと、妖魔共の思う壺である。

焔士郎は自分でも気付かぬうちに妖魔に対する戦いに身を投じることに疑いを持たなくなっていた。人間とは分からないものである。

木曾谷を過ぎた頃、前方から女性三人に一人の武士という目立つ一行が近付いてきた。

「お」

焔士郎の少し後ろを歩いている隆海も特徴的な一行に気付いたようである。

「艶かな艶かな」

隆海は目を細めて云う。存外、好色な性質なのかもしれなかった。

焔士郎は三人の女性よりも武士の方に気を取られていた。

「あの身ごなし只者ではない」

やがて、一行と焔士郎等がすれ違った。しばらくして、

「あ!!!」

と、焔士郎と武士は同時に大きな声を上げた。

「貴様は迅十郎!!」

「貴様は焔士郎!!」

互いに振り向いて指を指しあった。

「お前、こんなところで何をしている!!」

二人は同時に同じ言葉を吐いた。この二人、存外相性がいいのかもしれず、それよりも二人が何処かで反発しているのは同族嫌悪というものかもしれなかった。

「お前から言え」

二人は再び同時に言った。

「がっはははは!!」

隆海が哄笑しながら迅十郎の肩をバシバシ叩いた。

「痛い」

隆海は痛がる迅十郎を無視して、

「いや、奇縁でござる。奇遇でござる」

と、いいながら笑っている。そして、ぐいと迅十郎の肩を抱き寄せると迅十郎の耳に口を寄せて、

「して、あの麗しいご婦人方はどなたでござる?」

と、聞いた。隆海は迅十郎との再会を喜ぶよりも三人の美女に巡り会えたことの方が嬉しそうであった。迅十郎は諏訪での経緯を簡単に説明した。

隆海が辞儀を正して三姉妹に挨拶をしようとしたが、さっきまで三人いた美人が一人しかいなかった。これには迅十郎も驚いた。長女の雹しかそこにはいなかった。

「?」

迅十郎と隆海がキョトンとしていると、雹が杖に仕込まれた刀を抜いていきなり迅十郎に斬りかかってきた。

迅十郎は雹の一撃を紙一重でかわした。その身ごなしは流れるようであった。迅十郎得意の体術であり、この状態の迅十郎は既に身体の動きを本能の部分に委ねている。

「何奴!!」

迅十郎は拳を構えた。それと同時に宿泊先での艶やかな秘め事に対する希望も消えていった。まさかあの美人三姉妹が刺客であろうとは。

雹は素人とも思えない太刀技で迅十郎に斬りかかる。迅十郎はそれらを紙一重でかわす。

「貴様がまさか、赤目焔士郎の知り合いとはな!!」

雹が鋭い突きを繰り出した。迅十郎は身体を反転させつつ雹の懐に飛び込むと腕を掴んだ。

「狙いは焔士郎かい!!」

迅十郎は掴んだ腕が細く靭やかな女性の腕であることにいささかの躊躇を感じてしまった。本来であればすぐさま何らかの攻撃を繰り出しているはずであった。しかし、女性に対する哀しみが人一倍強い、と自分ではそう思っている迅十郎には雹を傷つけることがどうしてもできそうになかった。

「おい、焔士郎!!お前有名人ではないか!!」

迅十郎が焔士郎の方を向いてからかおうとすると、焔士郎の背後に末女の雪が太刀を抜いて迫っていた。

「先刻御承知」

焔士郎は短く云うと跳躍した。それは雪が太刀を振り上げるよりも早かった。

「!」

雪もすかさず跳躍して焔士郎にすがった。焔士郎は懐から十字手裏剣を取り出すと三つ放った。途中で手裏剣が火焔を帯びる。驚くべきことに雪はその火焔手裏剣を素手でそのうちのひとつを掴んだのである。

これには流石の焔士郎も驚いた。

「貴様の火焔術は私には効かぬ」

雪は空中で太刀を横に薙いだ。焔士郎は空中で回転してそれをかわすと街道脇の崖の上にそのまま着地した。雪も崖の上に降り立った。掴んだ焔士郎の手裏剣を投げ返した。焔士郎も飛来する手裏剣を掴んだ。その手裏剣は驚くほど冷たかった。常人であればたちどころに凍傷になるほどの冷たさであったが、焔士郎は咄嗟に火焔を起こしてそれを防いだ。

氷と焔。

それが雪と焔士郎の忍術である。相性は抜群に悪い。焔士郎は掴んだ手裏剣を傍らに投げ捨てると雪をじっと見つめた。

その様子を迅十郎は見つめていた。ついつい忍同士の凄まじい戦いを目にして雹の腕をつかんでいることを忘れていた。

「他人の事を心配している場合ではない」

迅十郎は掴んでいる雹の腕が冷たくなっていることに驚いて雹の方を振り向いた。雹は掴まれていない方の腕で振りかざした。凄まじい冷気が迅十郎の身体を襲った。迅十郎は二間ほど転がった。急いで立ち上がると迅十郎の一張羅が凍りついていた。

「こいつら冷気を操る忍か!!」

「遅い!!」

再び雹が腕を振り上げると、氷の礫が迅十郎を襲った。無数の氷の礫である。その一つ一つが鋭い刃のようであり凍えるような冷気を帯びている。迅十郎は身体を仰け反らせて氷の礫をかわしたが、避けきれなかった。いくつかの礫が迅十郎の腕を貫いている。

「ちっ!」

迅十郎と雹は同時に舌打ちをした。迅十郎は避けきれなかった悔しさからであり、雹は仕留めきれなかったことに対してである。正直迅十郎は困り果てていた。相手が術によって氷の礫を放つのである。迅十郎得意の柔術や空手の術は相手に近付かないと効果を当然ながら発揮しない。

(相性が悪いぜ…!)

「迅十郎殿!!」

隆海が迅十郎を案じて駆け寄ってきた。いや、しようとした。

「私の存在を忘れてもらっては困る!!」

隆海の頭上から次女霞が太刀を突き刺すべく降ってきた。殺気に気付いて隆海が上を見上げた時には霞の太刀が眼前に迫っていた。

「うおうっ」

ごつい身体に相応しくない敏捷な動きで隆海は咄嗟に六角棒をかざした。黒光りする六角棒に霞の太刀は弾かれたが、霞は空中でひらりと体勢を整えると鮮やかに着地した。

「姉上、こいつら意外と侮れませぬ」

「ええ」

「それぐらいでなくては困ります霞姉さま」

最後は焔士郎と対峙している末女雪の言葉である。三人は同時に衣服を忍装束に改めた。

焔士郎は忍装束に改めず、すらりと腰の太刀を抜いた。

隆海も腰を落として重そうな六角棒を構えた。しかしその目はどこか悲しげであった。隆海も美人相手に戦うことにいささかの躊躇を覚えているのであろうか。

迅十郎は腕の氷柱を抜いた。拳を保護するために装着している防具の為に傷はたいしたことはない。しかし、腕が冷気によって感覚が鈍くなっていた。

「どうした、抜かぬのか?」

雹がじりと迅十郎に詰め寄りながら挑発した。

迅十郎は考えていた。飛び道具を使う相手に対していかに戦うか。これまでいくつかの経験がある。その場合、今までどのようにして生き延びてきたか。

(これだ!)

迅十郎は姿勢を低くして雹に向かって駆け出した。飛び道具を使う相手に対しては先の先を制するしかない。案の定、雹はたじろいだ。

迅十郎は雹の懐に飛び込むとみぞおちめがけて拳を繰り出した。雹は咄嗟に太刀で防ごうとしたが、仕込み刀ゆえに通常の太刀に比べると脆かったため、迅十郎の拳によって文字どおり叩き折られた。

(ちっ!)

迅十郎はなおも攻撃の手を緩めない。回し蹴り、突き、肘打ちを立て続けに流れるように雹にあびせた。雹は防戦一方となった。迅十郎は雹に術を練る暇を与えれば再び氷の礫が襲いくる為に攻撃の手を緩めるわけにはいかなかった。

遂に雹は崖縁に追い込まれた。

「何故殺さぬ」

雹は迅十郎を睨み付けた。確かに迅十郎は体術だけで雹を追い詰めた。止めを差さない迅十郎は雹にすれば奇怪であったであろう。しかし、それが不抜の迅十郎のスタイルであることを知らなかった。

「女を殺すのは趣味じゃない」

「何を言う!」

迅十郎はしばらく雹の顎に拳を向けながらじっと相手の顔を見つめていたが、やがて拳を納めて雹に背を向けた。隙だらけになったといっていい。

「おのれ!!嬲るか!!」

雹は逆上したが、既に氷の礫を放つ気力は残っていなかった。迅十郎の背中が途方もなく大きくみえてしまっているということもあった。

負けた。

その場に膝をついてしまいそうになることを懸命に雹は耐えた。

「霞、雪、退くわよ!!」

雹が二人の妹に声をかけたとき雪は既に焔士郎に攻め立てられていた。焔士郎も迅十郎同様、相手に術を練らす暇を与えないほどの斬撃を浴びせていたのである。通常の兵法である剣術に忍の技を加味した変則的な太刀筋である。迅十郎も崖の上で繰り広げられる忍者同士の太刀打ちを油断なく見つめている。窮した雪は大きく跳躍すると姉の傍らに着地した。その跳躍に既に戦意を喪っている事を悟った焔士郎はあえて追おうとはしなかった。ふん、というと刀を納めた。

「姉上」

「ここは退く。赤目焔士郎、次はないと思え!」

雹が捨て台詞を残して雪と共に崖下に消えていった。

「焔士郎さんよ」

「・・・」

焔士郎は迅十郎に声をかけられたが黙っていた。だが、崖上から街道へひらりと飛び降りると迅十郎の方を向いた。

「迅十郎、まだ終わっていない」

確かに次女霞と隆海はまだ対峙したままであった。霞は姉と妹が先に逃げたため少し焦っていた。落ち合う所は決まっているためはぐれるということはなかったが、目の前のただの僧侶が意外に侮れない。忍に対する戦い方に慣れていた。霞は念を込めた。その気配を敏感に察したのか隆海は六角棒を構え直した。するとたちまち隆海の周囲に白い靄のようなものがたちこめてきた。

「む!」

隆海がまずいと思った時には遅かった。三間ほど離れた所にいたはずの霞はおろか、一尺先も見えないほどの霧に包まれてしまっていた。いや、その名の通り霞と言うべきか。

「おい、放っておいていいのか焔士郎」

迅十郎が周囲に立ち込める霞に少し慌てたが、焔士郎は平静を保っていた。焔士郎はずるい。あえて助太刀をしないつもりでいる。隆海の腕を信頼しているということもあるが、これで隆海の正体のほどが知れると思っている。焔士郎は隆海が敵であるとは思っていない。しかし、ただの高野聖とどうも思えない。

(さあ、隆海どうする)

焔士郎は少し意地悪く成り行きを見守るつもりであった。一方の見守られている隆海は焔士郎の想像通り全く困惑していなかった。

「これは術でござるかな。なれば慌てても仕方がない」

隆海はそういうと座って座禅を組んだ。六角棒を傍らにずしりと置くと瞳を閉じると言葉低く真言を唱え始めた。

般若波羅密多・・・。

隆海が低く唱え始めると既に隆海の背後まで迫っていた霞は不思議と隆海の気配を感じられなくなってしまった。

「これは・・・」

霞がふと我に帰って周囲を見渡すと真言曼荼羅の世界が広がっていた。霞の忍術は霧を用いた幻術にある。しかし、霞は術をかけたつもりが逆に隆海の術に陥ってしまっている。それに耳の奥で鳴り止まぬ隆海の真言が不思議と心地よく、眠りに誘い込まれそうであった。

隆海は霞に幻術をかけるつもりはなかった。ただ、霞のような目眩ましを用いる相手にはこのようにいつも真言を唱えるのである。隆海自身、真言の功徳など恐らく信じていない。何となく修行して身につけた修法が何となく忍や妖魔相手に不思議と有効であるため用いているだけである。不信心と言えばそうとも言えるし、真言を唱えて霞を逆に目眩ましにかけるほどであるため法力は侮れない。それ故に信心の為せる業とも言える。隆海自身も不思議な気持ちであろう。

一方の霞は曼荼羅の世界で呻いた。体が動かない。

「この私が幻覚など!!」

霞が心中で叫んだ瞬間、隆海はかっと眼を開いた。

「むんっ!!」

六角棒を天空に掲げてからズドンと地に突き刺すと衝撃波が隆海の周囲に迸った。霞は体が動けないままその衝撃波をまともにみぞおちにくらい、気を失ってしまった。霧が晴れていく。術者の霞が気を失ったためであろうか。

「お?」

迅十郎が目敏く倒れている霞を見つけた。ごつい体の隆海の後で倒れていた。隆海は焔士郎の視線で背後に倒れている霞に気付いた。

「さて」

と、言うと隆海は立ち上がると倒れる霞をひょいと軽々と担いだ。

「おい、隆海。その女刺客をどうするつもりだ?」

「この先の宿で解き放つでござる」

「連れていくのか?」

驚いたのは焔士郎である。思わず溜め息をついてしまった。

「哀れではないか、たまたま敵であっただけで我等この女性に恨みはなかろう」

もっともである。やむなく焔士郎は隆海に従った。

「さ、宿場へ急ごう」

隆海は霞を担いだまま歩き出した。

「おい、お前どうするつもりだ?」

焔士郎が迅十郎の襟首を掴んだ。迅十郎は既に歩き出そうとしていた。

「どこへ行こうと俺の勝手だろうが」

迅十郎が焔士郎の手を邪険に払った。

「なんとか言ってやれよ、兵衛」

迅十郎の腰におさまっている刀に憑依している兵衛は先刻より黙りこくっている。

「どうした兵衛?」

「おい、焔士郎に隆海よ」

兵衛はしばらくの沈黙のあと、焔士郎と隆海の名を呼んだ。

「おい、俺を無視するんじゃねえ」

迅十郎が兵衛に食ってかかったが兵衛は構わずに続けた。

「妖魔どもの真意が分からぬ。それに先程のクノイチども。あれは人間ではないか」

「妖魔に誑かされている忍がいるのでござろう?」

「応仁の頃に忍同士が相争った過去がある。未だにその時の禍根が絶てないでいるのさ」

隆海と焔士郎がそれぞれこたえた。

「急がぬと、奴等に先を越されるぞ。こいつをもっと有効に使え」

「言われぬともそうするつもりだ」

焔士郎が兵衛に言われて再び迅十郎の襟首を掴んだ。

「おいおい、勝手に話を進めるんじゃねえ!」

迅十郎は再び焔士郎の手を払おうとしたが、今度はどうなっているのか容易に手を払えなかった。

「お前のような妙な奴にうろうろされると迷惑だ。たまには兵衛の言うことに従え」

「けっ!」

悪態をつきながらも迅十郎は内心ほっとしていた。何故ならこれで道に迷うことがなくなるからである。兵衛の真意も案外そんなところにあるかも知れなかったが、焔士郎にとって武田勝頼を落ち延びさせるには一人でも多くの手練れが必要だった。

「ご両人、急ごう。この女性が気の毒でござる」

隆海が焔士郎と迅十郎を急かした。

天正妖魔異伝 第七話 美しき三姉妹

第七話:美しき三姉妹

 

武田の崩壊が刻一刻と迫っている。

(頃はよし)

そのように北叟笑んだのは邪眼である。

きっかけは美濃の岩村城であった。

岩村城というのは東美濃に位置しており代々遠山氏が支配している。遠く鎌倉の頃からというからよほど古い。

時代が下がって遠山氏は織田家に属した。美濃に属している以上やむを得なかったであろうが、隣国の武田氏は盛んであり、度々攻められた。信玄は美濃への橋頭堡として岩村城を欲した。遠山氏の現当主である景任は武田の猛攻からよく岩村城を守った。しかし、元亀二年景任が没すると翌年の元亀三年に武田の武将秋山信友によって落とされた。

その三年の後、信長は長篠で武田勝頼を撃破すると岩村城の回復に努め、五ヶ月にわたる攻城の後、秋山信友は捕らえられ長良川で磔にされた。

この岩村城救援を勝頼は木曽義昌に命じたが、義昌は病と言って動かなかった。木曽義昌は武田の外戚である。義昌の妻は信玄の娘であり、勝頼の姉である。武田信玄木曽福島を拠点とする名族木曽氏を重要視して、娘を嫁に出すほどの厚遇を義昌に与えたが、実質は人質をもとっており、外戚として迎えたというより、屈伏させたというに近い。

岩村城救援の一件以来、勝頼と義昌の関係は冷えきっている。

その木曽福島に邪眼は織田家の密使と称して入り込み、義昌に近付いた。邪眼の邪眼たる所以である。彼はその瞳で相手を催眠状態にさせることが出来る。

邪眼は義昌と対峙しながら時折その眼を輝かせる。義昌はその瞳を見つめると虚ろな表情になった。邪眼は喉の奥で音を鳴らして笑った。

「決心はついたかな?」

「うむ…」

虚ろな目をした義昌が答える。邪眼はその様子を満足そうに眺めるとさらに続けた。

「既に先年の岩村城救援を断って以来、御館様との関係はまずう御座いましょう。今は織田家に靡くが得策でござる」

「ふむ」

ここ数年来の記憶が義昌の頭をよぎった。天正三年のあの時、義昌は確かに病であった。それは偽りではない。しかし、出陣が出来ないほどの病でもなかった。義昌は不幸にも木曽という武田勢力圏の西端を領していた。近隣の織田家の様子は甲斐にいる勝頼に比べるとよく判るのである。長篠の敗戦もそれ以降の武田家の運命も匂いで判るのである。

「このまま武田に属していて良いものか」

この時代の地頭が生き残る為には他の大勢力を頼るか或いは自立するかの二択しかない。義昌程度の器量では自立は難しい、なれば他の勢力に頼るしかない。それには既に武田家は適当ではないではないか。

義昌の思案はそこに至った。しかし、義昌は直ぐに行動には移さなかった。次に頼るべき織田家の動向を見守っていたといっていい。悪く言えば値踏みをしていたのである。

天正八年。

信長を手こずらせた石山本願寺が降伏した、中央で信長の足を常に引きずり回していた仇敵が消えた。信長は遂に天に羽ばたける翼を得たと言っていい。義昌の気持ちも揺らいだ。さらに勝頼は高天神城の救援にも失敗している。武田の武威は既に消滅しかかっていた。にも関わらず勝頼は義昌に新しい城を築くための年賦を課してきたのである。ここ数年の連戦で武田の百姓は塗炭の苦しみを味わっている。

「ここが機会か」

義昌がそのようになかば決した時、目の前に織田家の使いと称する男が現れた。

その正体は妖魔邪眼であった。

しかし、義昌はそんなこととは露知らず、青木左京亮と名乗る邪眼を信じきっていた。いや、信じ切らされていた。

「右府様に、よろしくお伝え下され」

義昌が頭を下げた。その頭を邪眼は見つめ、ニヤリと笑った。邪眼にとってその言質だけで良かった。居並ぶ群臣の前で義昌が織田家につくと言ったことが大事であって、後はその言葉通りにことが運ぶ。何故なら一度出した言葉は取り消せない。仮に本心ではなくともいずれその言葉は勝頼の耳に入るであろう。そうなれば勝頼は義昌を何らかの形で処断せざるを得なくなる。義昌は生き残る為に織田家に奔らざるをえないのである。

「確かに…」

低く邪眼が答えると、義昌ははっと我に帰った。その時には既に邪眼は義昌の眼前にいない。呆気に取られる義昌を家臣が見つめている。

「殿?」

織田家の使いが今ここにいたか?」

「殿、それは先日のことでござる」

義昌は目を見開いた。さっきまでここに青木左京亮と名乗る織田家の使いがいたではないか。義昌はそう家臣に云った。

「殿、何度も申し上げますがそれは昨日のことでござる。今日は家臣をお呼びなされ、今後の方策を決する評定じゃと仰られたではありませんか」

白昼夢でも見たのか。義昌は頭を押さえた。

「殿、織田家へ奔るのでござるな?」

家臣が念を押した。

「わしがそう申したか」

家臣達は互いに顔を見合わせた。明らかにここ数日の義昌の様子は面妖であった。主家を裏切るのである。義昌は人質を勝頼の下に出している。織田家へ奔るということはその人質の命を奪うことになるのである。家臣達は義昌がその事で苦慮するあまり平静を失っていると判断した。家臣達もまさか常に歴史の暗部で動いてきた妖魔が義昌を催眠術にかけているとは想像も出来なかった。

「人質の件は我らがどうにかいたします」

家臣の一人が義昌に請け合った。

義昌出奔。

その報せを受けた勝頼は激怒した。直ちに義昌の人質である義昌の母と嫡男及び長女を殺した。

その翌日に信長は既にその報せを安土で聞いている。恐るべき諜報網である。仕掛けは光秀が支配下に置く忍衆が極めて機能的に作動したにすぎない。

天正十年二月三日。

信長は甲州への討ち入りを決意した。


毎日、夜が明ける前に隆海は出ていく。

焔士郎はそんな隆海を見ながら、よく働くなと感心している。隆海は日没後に帰ってくる。日が暮れてからは焔士郎の時間である。

二人は昼夜交代で犬山に侵入してくるであろう東国の忍衆を待ち伏せしている。これは左近の指示である。本来であれば、焔士郎ほどの手練れの忍であれば積極的に攻撃に用いたいところであったが、相手の戦力や出方が見えない以上、犬山で誘殺する方がやり易い。

焔士郎もそこは心得ている。

昼間、隆海は真言系の寺に顔が利くようで犬山周辺の寺寺を巡っては異変がないかそれとなく探っている。無論、左近配下の忍が援助はしているが、本職が僧侶だけあって動きに不自然さは微塵もなかった。焔士郎は夜の闇の加護を受けて網を張っている。左近配下の忍のなかにはかつての伊賀衆もおり、顔見知りも何人かいた。焔士郎はそのような連中からの情報を得つつ、犬山で警戒をしている。

信長が甲州征伐を決した翌日のことである。地響きを立てるように棟割り長屋に隆海が駆け込んできた。長屋が崩れる、焔士郎は一瞬ではあったが本気で心配してしまった。

「焔士郎!」

語気は荒いがなるべく音量を落としながら隆海が焔士郎の名を呼んだ。

「いかがした?」

焔士郎がごろりと寝返りをうちながら、隆海の方を向いた。

「お主は呑気じゃな、出たぞ、敵の忍が!」

その隆海の言葉でガバッと焔士郎は太刀を持って立ち上がった。

二人は犬山城に赴いた。堀に人が一人浮いていた。背中を刀でバッサリとやられている。

「あの御仁、右近配下の忍の一人であろう?」

隆海が焔士郎に囁いた。

確かに風体は似ている。やがて城の侍衆が堀の死体を引き上げた。その時に焔士郎はそれとなくを見確かめた。知っている顔であった。伊賀でも名の知れた手練れの一人である。その忍を背中から一刀で殺めているのである。

気が付けば、堀のたもとに人垣が出来つつあった。焔士郎は感じた。

いる。

その人垣の中に、この忍を殺めた忍者が。視線を感じるのである。

(まずいな)

焔士郎は不用意に隆海とここへ来たことを悔いた。ただでさえ目立つ隆海と一緒にいれば目立って仕方がない。それに高野聖と牢人という連れ合いは不自然であった。

焔士郎はさりげなく隆海と距離を開けた。隆海は気付いているのか気付いていないのか堀端をじっと見つめている。やがて隆海は焔士郎が離れていることに気づいて目だけで探した。焔士郎と隆海が目が合うと焔士郎はほんの少しだけ頷いた。それで隆海は悟ったらしく。首をこくこく鳴らしながら、人垣を離れた。焔士郎は横目でそれを確かめつつ、視線の主を探した。その視線は時に離れるが、何度も焔士郎に注がれている。向こうも焔士郎を怪しいと感じている証拠であった。

いた。

人垣の中に薬売りがいた。焔士郎とその薬売りの目が合った。この頃には焔士郎はこの忍を斬ることを決心している。故にわざと目を合わせた。そうすることによって敵を誘い出せるからである。焔士郎の自信の表れでもあった。忍者は闇の中でこそその刀技の真髄を発揮できる。しかし、焔士郎は白昼でも一般的な兵法者のように闘えるのである。並みの忍者とはそこが違った。無論、闇の中でも誰にも負けない自信はあった。

焔士郎は視線を合わせてからわざと急いで視線をそらし、足早に人垣を離れた。

案の定、薬売りは焔士郎の後を尾行けてきた。焔士郎は城下を離れ、やがて人気のないところに薬売りを誘い出した。

やにわに焔士郎は跳躍した。薬売りも跳躍した。空中で鉄と鉄がぶつかり合い火花が散った。空中で撃ち合ってから二人は着地した。既に薬売りはその証しとも言える背負っていた大きな薬箱を下ろしている。その顔は紛れもなく先に街道で沙音と闘りあった風魔の道庵だった。

甲賀か?いや、伊賀だな」

薬売りこと道庵は忍者刀を逆手に持って低く構えた。焔士郎はゆっくりと振り向きながら太刀を構えた。

「俺が伊賀の忍者だったらどうする?」

「斬る!」

道庵が地を低く駆けて焔士郎に殺到した。焔士郎は受けずにかわしつつ焔士郎得意の手裏剣をはなった。手裏剣が道庵の身体を貫いた。しかし、それは道庵の身体ではなく衣だけであった。本体は既に高く跳躍しており、焔士郎と同じように手裏剣を放った。焔士郎は太刀を逆手に持って手裏剣を弾いた。そして焔士郎は背後を振り向き様に横にびゅっと薙いだ。

その焔士郎の一太刀を道庵は紙一重でよけた。道庵は焔士郎に手裏剣を放つと同時に背後に回り込んでいたのである。焔士郎はそれを看破していた。双方ともに凄まじい業の応酬であった。

しかし、焔士郎も得意の火焔術を見せていない。道庵もその術のすべてをさらしていなのは明白であった。

「東国の忍…、風魔か!?」

焔士郎は探りを入れた。

「如何にも風魔。そういう貴様は奥伊賀の赤目焔士郎!」

「!」

道庵は焔士郎の正体を知っていた。

(間者がいる…!)

焔士郎は一瞬、右近配下の忍の中に東国の忍衆に通じている間者がいる可能性を思案した。それは一瞬であったに過ぎない。しかし、その一瞬の隙を道庵は見逃さなかった。後方に焔士郎との距離を開けつつ跳躍すると手裏剣を放った。焔士郎は慌てて太刀を構えた。かわすには遅すぎる為に太刀で弾こうとしたのである。が、その道庵の手裏剣の軌道が焔士郎を捉えていないために戸惑った。焔士郎の忍としての本能が危険を察知して身をそらしたが間に合わなかった。深々と地面に刺さった手裏剣は的確に焔士郎の影を貫いていた。

(!!)

「動けまい…」

梢の上に立ちながら、道庵が喉の奥で笑った。

(不覚だった)

焔士郎は風魔の忍者の中に影を縫う術者がいると聞いたことがあるのを思い出した。

確かその名は影縫いの道庵。

「貴様がそうか、風魔の影縫いの道庵か」

「互いにこの世界では有名ではないか。火焔の焔士郎」

道庵はひらりと梢から飛び降りた。ゆっくりと焔士郎に歩み寄ってくる。焔士郎は道庵に影を縫われているために動けない。焔士郎は少しずつ己の体がどの程度動けるか確認している。手足が動かなくなってはいるが呼吸等が封じられているわけではない。

「死んでもらおうか」

道庵が忍者刀を焔士郎の首筋に当てようとした瞬間、焔士郎は口内の含み針を吹き飛ばした。道庵は明らかに不意を突かれた。それはほんの一瞬であったに過ぎない。しかし、その一瞬を焔士郎は逃さなかった。道庵が不意を突かれ怯んだ隙に焔士郎は跳躍した。

「含み針とは…!」

道庵は針を刀の柄で防いでいた。焔士郎は梢の上に立っていた。影縫いの道庵が焔士郎の秘術である火焔術の正体を知っている以上、よほど慎重に使わねば勝ち目はない。

「どうした焔士郎、来ないのか?」

梢の上から降りてこない焔士郎を道庵は挑発した。

「お前こそこっちへ来いよ」

そう云って焔士郎は放胆にも梢の上で寝転がった。道庵は迷った。

(隙だらけだ)

刀で斬ろうが、手裏剣で貫こうが、今なら間違いなく焔士郎を殺せる。しかし、出来なかった。この隙は明らかに怪しい。道庵が動に転じた瞬間、真っ二つにされる絵がありありと道庵の脳裏に浮かぶのである。こめかみに滲んだ汗が流れた。そのうち、本当に焔士郎が梢の上で寝転がっているのかわからなくなってきた。あれは焔士郎が仕掛けた変わり身かなにかではないのか。そう感じた瞬間、背後に視線を感じた。道庵はその時に焔士郎の幻術に陥っている自分を発見した。

(恐ろしい相手だ…)

道庵は奥伊賀の焔士郎を殺せば、他の忍はものの数ではないと踏んでいた。昨夜実際に一人殺している。簡単な仕事であった。しかし、それは伊賀の忍の中でも表の忍者であって伊賀忍衆からも化物扱いされている奥伊賀忍者衆を相手に想定したわけではなかった。

「焔士郎殿、何をしている?」

大きな声が雑木林を貫いた。その声に梢の上で寝転がっていた焔士郎は座った。道庵はびくりとした。背後にもう一人の気配を感じる。巨大な声の主は隆海であった。

「そいつが、風魔の忍者だ」

「ほう、こやつが。思ったより小さい男だ」

大きな隆海から見ればどの男も小さく見えるに違いない。焔士郎は計算していたのである。梢の上で寝転がった時に既に隆海が近づいてくることに気づいていた。そこで簡単な目眩ましを道庵に施した。それは単に寝転がっただけであったが、道庵ほどの忍者になると深読みしてしまい動けなくなる。三國志にある諸葛孔明の空城の計に似ている。相手が司馬仲達という煮ても焼いても食えない男だけに通じる術である。

道庵はまんまとかかってしまった。

(あれは目眩ましでもなんでもない、ただの時間稼ぎであったか。しかし、それをうまく利用するとは術者としてやはり焔士郎という男は只者ではない)

焔士郎も道庵もそして隆海もその時、ただならぬ気配を感じた。

「隆海、動くな!!」

焔士郎はそう叫ぶと隆海の傍らに飛び降りた。三人が感じた気配は明らかに忍のそれであった。焔士郎は背筋に汗が流れるのを感じた。感じる気配が、いや殺気が尋常ではなかったからである。

「遅かったな」

道庵が幾分か緊張をやわらげながら云った。

「戸隠四天王。馳せ参じ候」

不気味な声が雑木林の何処かから響いた。

「戸隠四天王だと!!」

焔士郎は周囲を見渡した。信州戸隠を拠点にしている忍衆である戸隠忍者の中でも屈指の術者だと聞いている。風魔に戸隠、東西の忍合戦の様相は誠に凄絶になりつつある。焔士郎はこの時限りは個人主義の伊賀衆であることを呪った瞬間はなかった。甲賀の連中であればこういう場合仲間が援護してくれるが、今の焔士郎には忍相手には未知数の隆海という高野聖しかいなかった。

「焔士郎、終わりだな。さしもの貴様も戸隠四天王相手に勝ち目はないぞ。ましてそのような坊主が仲間にいてはな!」

道庵が勝ち誇って跳躍した。たちどころに梢の間に姿をくらました。

「侮られたものだ」

隆海が嘆息した。

「忍者相手に闘えるのか?」

「焔士郎殿、貴殿には失礼ながら忍も妖魔もかわらぬ」

真面目な顔つきで焔士郎に言う隆海を見て焔士郎は吹き出しそうになった。確かにそうであろう。妖魔も忍もかわらないではないか。どちらも常人からすれば人外の化生に過ぎない。

梢がざわつく。

焔士郎には四つの気配が素早く動きながら距離を詰めて来ていることが感じられた。

隆海は例の六角棒を水平に持つと経を唱え始めた。焔士郎も隆海の背中で呼吸を整えている。

「死ねい!!」

四つの影が同時に二人に殺到した。しかし、常人には分からないがそれは同時ではなかった。焔士郎と隆海を確実に仕留めるべく少しずつ時間をずらしている。同時に殺到すると、かわされた場合に次の攻撃に移りにくい。戸隠四天王はこの時間差攻撃で焔士郎と隆海を仕留めるつもりであった。二人にはかわしようがない。少なくとも戸隠四天王の四人はそう信じていたでであろう。

「ぬん!!」

気合を入れて隆海は地面に六角棒を突き刺した。すると大地が盛り上がり、光の柱が立った。その衝撃に、四天王のうち二人が吹き飛んだ。時間差をつけた残りの二人が焔士郎に殺到する。

その頃には焔士郎も呼吸を完全に整えており、術をかける体勢に入っていた。

刀を振り上げ、

「円陣火焔柱!!」

と、叫ぶと焔士郎と隆海の周囲に火柱が上がった。その火柱は二人を守るように円筒形をしていた。その火柱を一人はかわしたが、もう一人は避けきれず顔面を焼かれた。

「ぎゃあああ!!」

顔面を押さえて一人の忍が地面に転がった。その忍に止めを刺そうと焔士郎が迫ったが、先に隆海に吹き飛ばされたうちの一人が焔士郎を遮った。残りの二人が顔面を焼かれた仲間を回収して森間に消えていった。一分の隙もない素早い動きであった。

焔士郎を遮った忍者はそれを見届けると、

「奥伊賀の焔士郎、その首はしばらく預けておく」

と言った。頭巾の間から覗く瞳が復讐に燃えている。焔士郎は無言で刀を納めた。気が付けば道庵の気配も消えている。そして戸隠四天王の残された一人も跳躍して姿を消した。

「追わぬのか!」

隆海が六角棒をりゅうりゅうとしごきながら、森の中を睨んだ。

「無駄だよ。それに今追えば奴等の術中に陥るようなものさ」

「術でござるか?」

「戸隠四天王、恐るべき相手だ」

隆海が焔士郎を見れば袖口が二寸ほど割かれていた。出血はしていなかったが、焔士郎は紙一重で敵の攻撃をかわしている。しかし、その戸隠四天王の誰がいつどうやったかが焔士郎にはよく分からない。ともかく焔士郎の忍としての本能が敵の攻撃をかわさせたと云っていい。

風魔に戸隠四天王。

それに謎に満ちた遠野の忍衆もそのうち敵となるであろう。

焔士郎は目が眩む思いであった。

織田方の忍衆といえばどれもこれも子粒揃いである。伊賀のおも立つ忍者は昨年の天正伊賀の乱で死んでしまっており、甲賀の忍衆は集団戦法こそ優れているが個人技となれば風魔や戸隠相手では劣る。鞍馬や熊野の忍は既に亡く、頼りになる忍が少ない。

(応仁の頃は九州阿蘇の忍衆が西方の仲間になったと言うが、今の世に術が継承されているか)

焔士郎は思案したが、もし仮に阿蘇の忍衆が仲間になったとしても九州はあまりに遠方過ぎた。

(志津花と共にいたあの女は恐らく鞍馬の忍衆の一人であろう)

焔士郎は今になって志津花の存在が惜しくなった。というより一緒にいた沙音という忍の腕を頼りにしたかっただけであって志津花そのものに戦闘力は期待していない。

しかし、先の隆海のように意外と役に立つかもしれなかった。忍も妖魔も変わらない、という隆海の言葉を思い出した。

焔士郎はちらりと隆海を見た。隆海は自身の大きな腹をさすっている。腹でも空いたのであろう。その仕草はおよそ緊張感というものからは程遠かったがどこか頼もしげに見えた。

「いかがした、拙僧の顔になんぞついとるかの?」

隆海は焔士郎の視線にきづいて破顔した。

「これからの戦いは厳しくなるぞ。隆海、帰るなら今だ」

「がっはははは!!」

突然の哄笑に焔士郎は驚いた。

「どこに帰る場所があるかよ!この隆海、お主と死ぬ覚悟は出来ておるわい」

焔士郎は隆海の覚悟は素直に嬉しかった。

「ふん、好きにしろ」

焔士郎はプイとそっぽを向いたが、顔は笑っていた。無愛想な焔士郎にしては奇跡といえた。

(ともかく、師匠に請うて奥伊賀衆を再結集するしか、奴等に抗する術はなさそうだな)

焔士郎は早速、長屋に戻ると安土にいる師匠のもとへ使いを出した。

天正忍合戦が激しさを増していこうとしていた。


天正十年、二月二日。

武田勝頼は織田方に寝返った木曾義昌の人質を殺害した。そして直ちに武田信豊が5000の兵を率いて先発、勝頼自身も一万の軍勢を率いて新府城を発した。目指すは寝返った木曾義昌のいる木曾谷である。

二月三日。

勝頼出陣の報せを受けた信長は甲州征伐を決意。

先発は森長可団忠正であり、目附に川尻秀隆がついた。この軍団は美濃方面から信州に進出する。織田信長の動員令は同盟者の徳川家康にも届いた。さらには当時同盟関係にあった関東の北条氏にも出陣要請があり、武田勝頼は東西南から攻め込まれる形勢となった。

「大変な騒ぎですわ」

信州の諏訪に達していた善光寺参りに扮した志津花と沙音は街道に武者がひしめいてしまっており進退に難渋する結果となってしまった。二月十二日のことである。

勝頼は木曾を目指している。甲州から木曾へ至るには諏訪は避けては通れない。そしてこの日、織田信長の嫡子信忠と滝川一益岐阜城を発している。

「信忠が岐阜を出たという」

諏訪の宿の一室で沙音がどこから仕入れてきた情報なのかは不明ながら志津花に伝えた。

「織田はこの一戦で武田を滅ぼすつもりでいるぞ」

武田が滅ぶ。それは勝頼の死を意味する。妖魔は源氏の由緒正しき血脈である勝頼を怨霊と化すために暗躍を始めるであろう。いや、既に始めているかもしれない。

志津花や沙音は知る由もないが、きっかけとなった木曾義昌の寝返りそのものが妖魔の仕業であった。ともかく志津花は勝頼を救うか妖魔を斃すかのいずれかをせねばならない。

「沙音殿、甲州へ急ぎましょう」

志津花は沙音を急き立てた。

「勝頼が今どこにいるか探らねばなるまい。既に甲州の新府を発しているであろう」

沙音が街道の情報を集めるべく宿の者や他の旅人にそれとなく聞いて回った。

「勝頼はもうじきこの諏訪に着陣するらしい」という情報を得たのが二月十六日である。この日、武田勢は鳥居峠で織田軍の援助を得た木曾義昌に敗退している。織田軍団が信州に雪崩れ込んだ初手から南信の小領主は競うように織田に靡いてしまっている。織田信長が長篠の戦勝で得た果実がようやく実ろうとしてこうしくいる。熟柿が木から落ちるように、武田の凋落も始まった。

「一方的過ぎます」

志津花は諏訪の宿で憂いた。武田の崩壊があまりにも早く、そして織田の勢いがあまりにも凄まじかったからである。

その時である。

二月十六日の薄暮、志津花は不意に悪寒に襲われた。

「志津花殿!?」

両手で二の腕を掴みガタガタと突然震え出した志津花を見て普段は冷静な沙音はやや取り乱した。

「妖魔が…来る…!」

蒼白な顔を上げて志津花は云った。

志津花が察知した通り、その時諏訪の宿場に邪眼が足を踏み入れていた。そしてもう一人の妖魔が諏訪に来ていた。

二人の妖魔は諏訪湖の畔で深更に邂逅した。

「邪眼、貴様の役目は東西の忍衆同士を戦わせることであろう」

「その目的は既に達した。私はさらに四郎勝頼を怨霊とすべく動いている、それだけだ」

「…」

「いけないか、信貴の羅焦」

羅焦と呼ばれた妖魔は眉をひきつらせた。あの時、外法僧の格好に化けていた妖魔である。

「邪眼、貴様の悪い癖だ。なまじ頭が切れる故に独断が多いわ」

「ふん。私がこっちで暗躍していることを察して、動き出した伊賀や言霊の一族の目が自然とこちらに向いているわ」

「囮になるつもりか、そのような殊勝なことをお主がするとはな」

「けっ」

邪眼はそっぽを向いた。

「ともかく、我ら主がお呼びだ。直ぐに姫路へ帰ってこい」

「羅焦、貴様の指図には従わぬぞ」

邪眼が羅焦を指差した。

「ワシの指図ではない。主が呼んでおるのだ。噴牙と怨角を既に失っておるのだ、我等が悲願の成就のためにこれ以上、我等が同胞を失う訳にいかぬのだ」

「けっ、この俺が言霊の一族や忍に討たれるかよ!姫路に戻って主に伝えよ、悲願の成就のために邪眼の陰謀は順調に進んでおりますとな!」

邪眼は怒気を発した。邪眼の足下に闇がひろがる。

「待て」

羅焦が手を上げて邪眼を制した。

「どうやら客だ」

葦の原の向こうに人影が見えた。その人影の正体は志津花と沙音である。

「先程の瘴気、間違いありませぬ」

志津花が傍らの沙音に云った。

「ふむ、だが気付かれたようだ」

志津花がただならぬ殺気に気付いて上を向いた時はそこに跳躍していた邪眼がいた。

「!」

空中で邪眼が両手を広げた。凶々しい爪がにゅうっと伸びた。

「忍か!!!死ね!!!」

邪眼は着地と同時に凶爪を振り回した。志津花はかがみ、沙音は後方に跳躍して邪眼の攻撃をかわす。沙音は跳躍と同時に装束を脱ぎ捨て忍の姿になった。そして両手を振り上げた。風が轟く。

「風使い!鞍馬の天狗か、面白い!!」

巻き起こる風の中で邪眼が不敵に微笑んだ。

「余裕だな!」

沙音は巻き起こった風に向かってさらに両手を交差させた。すると風の中に真空が生じて鋭い刃と化し邪眼に迫った。しかし、その真空の刃は邪眼の身体を通り抜けた。真空の刃は邪眼の背後の葦を薙ぎ払いさらにその後ろにあった巨木をすぱりと切り倒した。

「何処を見ていた?」

邪眼はいつの間にか沙音の背後にいた。沙音は驚愕した。いつの間に背後に回ったのか、全く沙音にはわからなかった。しかし、二人の戦いを一部始終見ていた志津花は邪眼が始めから沙音の背後にいたことを知っている。

幻術であった。邪眼の邪眼たる所以である。

(ちっ!)

沙音は内心舌打ちした。

(迂闊だった…)

妖魔が真っ正面から挑んで来ているのである。何か術策があって当然である。沙音は妖魔に対して真っ正面から受けたことに後悔した。

「死ね!!」

邪眼の凶爪を沙音は小太刀で受けたが、沙音は二間ほど吹き飛ばされた。凄まじい攻撃である。沙音は空中で体勢をくるくると回転させて整えると着地した。そこへ邪眼が迫る。

。邪眼は志津花の存在を忘れている。目の前のいかにも忍である沙音を引き裂く事のみに囚われすぎていた。

立て続けに銃声が諏訪湖の畔に轟いた。志津花自慢の短筒が火を吹いた。銀製の弾丸が邪眼に迫った。

「!!」

邪眼は沙音の手前で跳躍して弾丸を避けた。沙音も邪眼を追うべく跳躍した。掌に念を込めて風を呼ぶ。志津花も空中の邪眼に二丁の短筒の照準を合わせた。

「邪眼よ苦戦しているようだな」

志津花の目の前にぬっと人影が立った。それは志津花に背中を向けていたが、邪眼や淀で焔士郎と斃したあの妖魔とは存在感が違った。

(こいつ…やばい!!)

志津花は銃口を羅焦の背中に向けた。

「女、その武器は生駒の噴牙には効いたかもしれぬが、ワシには通ぜぬぞ」

羅焦はゆっくりと振り向いた。志津花は引き金を引いた。弾丸が放たれる。羅焦はゆったりとした所作で手をかざした。弾丸が羅焦の手前で溶解した。

「!!」

志津花は咄嗟に飛び退いた。羅焦の周囲の異常なまでの高温に耐えられなかったからである。急激に熱せられた空気がゆらめく。

沙音は突如訪れた志津花の危機に邪眼を無視して羅焦に向かって空中から一文字手裏剣を放った。手裏剣が風を纏い、凄まじい速度で羅焦に迫った。しかし、羅焦に到達する直前に一文字手裏剣までもが溶解した。

「馬鹿め!!」

手裏剣を投じた後の隙だらけの沙音に強烈な蹴りを邪眼は浴びせた。葦の原に沙音は叩きつけられるように落ちた。

「まず一人」

「沙音!!」

志津花が沙音のもとへ急ごうとするのを羅焦が遮った。

「女よ、他人の心配をしている場合ではないぞ」

志津花の眼前に真っ赤に燃え上がった拳を振り上げる羅焦がいた。その羅焦を一陣の風が襲った。

「生きていたか!」

葦の原から沙音が立ち上がり、風を起こしたのである。

「邪眼!詰めがあまいぞ!」

巻き起こる風にさらされ羅焦の体が急激に冷えていく。沙音は跳躍した。

「いかに妖魔とはいえ、風の刃を溶かすことはできまい。くらえ!」

沙音が腕を横に薙ぐと風の中に真空が生じて鋭い刃と化し、羅焦に迫った。羅焦はかろうじて身をよじってかわしたが、右の腕が切断された。

羅焦は切断された己の腕を冷厳と見つめると残った左腕を沙音に向かって振り上げた。

熱風。

羅焦の拳が繰り出す衝撃は全てを焦がし尽くす熱風となって沙音を襲った。沙音は辛うじて自分の周囲に風の防護壁を形成して熱風から身を守った。しかし、熱風の勢いに圧されて地上に再び叩きつけられた。そこに志津花が駆けつけた。

「沙音!!」

志津花は沙音を抱き起こすと懐から口径の大きい短筒を取り出すと羅焦に向かって引き金を引いた。ゆっくりとした速度で大きな弾が羅焦に向かって飛んでいく。

「無駄だ」

羅焦はかわすつもりはなかった。

「羅焦、それはいかんぞ!」

邪眼がそのように警告した次の瞬間だった。志津花の放った弾は空中で弾けて周囲に煙が立ち込めた。しかもその煙には古来より魔除けの効果があると言われる柊の成分が含まれていた。煙を浴びた邪眼と羅焦は悶絶した。

「おのれ!!小娘どもが!!!」

羅焦が凄まじい怒気を発した時には志津花と沙音の姿はどこにもなかった。

「ふん。逃げおったか。ともかく」

羅焦は直ぐに平静に戻ると、傍らに落ちて転がっている自らの腕を拾いながら邪眼を睨んだ。

「ともかく、何だ?」

甲州の仕事をさっさと終わらせて、姫路へ戻れ」

「ふん、言われるまでもないわ」

その邪眼の言葉を聞き終えると羅焦は腕をくっ付けた。驚くべきことに腕が元通りにくっついた。

「邪眼、さっきの二人は早々に始末した方が良いな」

「姫路でも云ったであろう。忍は忍に始末させる。風魔、戸隠、遠野の連中が既にワシの下知に従っておる」

羅焦はしばらく諏訪湖の湖面を眺めていた。

姫路で待っておる、と言い残すと羅焦の体が地中に消えていった。その姿を見ながら邪眼は唾棄した。

志津花は沙音に肩を貸しながら宿に戻った。

「志津花殿、すまない」

沙音は部屋に倒れるように寝転がると志津花に謝した。沙音が自分自身で身体を確認したがどうやら軽い打撲と火傷程度ですんでいるようであった。志津花は手際よく耳だらいに水を満たし、手拭いで沙音の火傷の痕を冷やした。

「恐ろしい力をもった妖魔でしたね」

志津花が沙音の傷口を拭いながら云った。

恐ろしい力。沙音は内心で臍を噛む思いであった。鞍馬の忍として術を練磨してきたこれまでの人生の中で己の力を上回る者に沙音は出会ったことがなかった。忍としての己の力量に慢心があった。妖魔は人外の化生である。もっと警戒して然るべきであった。

「志津花殿」

「はい?」

志津花は手を止めて沙音の顔を見た。あどけない黒目の大きな瞳が沙音を見つめている。

甲州へ急ごう。織田と武田では最早勝負にならない。この戦、直ぐに終る」

「勝頼を落ち延びさせましょう。死なぬ限り、怨霊にはなりますまい」

妖魔の狙いは織田信長によって武田勝頼が無念のうちに死ぬことである。この世に激しい未練を残し、かつその死に方が無念であればあるほど怨霊としての力がます。その怨霊によって過去に鎮魂された荒魂を再び世に再臨させ、天つ神の支配に完全に終止符をうつのである。

翌朝、志津花と沙音は諏訪を発った。中仙道は武田の兵で満ちているため、二人は杣道のような山中の道を通って甲州を目指した。