天正妖魔異伝 第七話 美しき三姉妹
第七話:美しき三姉妹
武田の崩壊が刻一刻と迫っている。
(頃はよし)
そのように北叟笑んだのは邪眼である。
きっかけは美濃の岩村城であった。
岩村城というのは東美濃に位置しており代々遠山氏が支配している。遠く鎌倉の頃からというからよほど古い。
時代が下がって遠山氏は織田家に属した。美濃に属している以上やむを得なかったであろうが、隣国の武田氏は盛んであり、度々攻められた。信玄は美濃への橋頭堡として岩村城を欲した。遠山氏の現当主である景任は武田の猛攻からよく岩村城を守った。しかし、元亀二年景任が没すると翌年の元亀三年に武田の武将秋山信友によって落とされた。
その三年の後、信長は長篠で武田勝頼を撃破すると岩村城の回復に努め、五ヶ月にわたる攻城の後、秋山信友は捕らえられ長良川で磔にされた。
この岩村城救援を勝頼は木曽義昌に命じたが、義昌は病と言って動かなかった。木曽義昌は武田の外戚である。義昌の妻は信玄の娘であり、勝頼の姉である。武田信玄は木曽福島を拠点とする名族木曽氏を重要視して、娘を嫁に出すほどの厚遇を義昌に与えたが、実質は人質をもとっており、外戚として迎えたというより、屈伏させたというに近い。
岩村城救援の一件以来、勝頼と義昌の関係は冷えきっている。
その木曽福島に邪眼は織田家の密使と称して入り込み、義昌に近付いた。邪眼の邪眼たる所以である。彼はその瞳で相手を催眠状態にさせることが出来る。
邪眼は義昌と対峙しながら時折その眼を輝かせる。義昌はその瞳を見つめると虚ろな表情になった。邪眼は喉の奥で音を鳴らして笑った。
「決心はついたかな?」
「うむ…」
虚ろな目をした義昌が答える。邪眼はその様子を満足そうに眺めるとさらに続けた。
「既に先年の岩村城救援を断って以来、御館様との関係はまずう御座いましょう。今は織田家に靡くが得策でござる」
「ふむ」
ここ数年来の記憶が義昌の頭をよぎった。天正三年のあの時、義昌は確かに病であった。それは偽りではない。しかし、出陣が出来ないほどの病でもなかった。義昌は不幸にも木曽という武田勢力圏の西端を領していた。近隣の織田家の様子は甲斐にいる勝頼に比べるとよく判るのである。長篠の敗戦もそれ以降の武田家の運命も匂いで判るのである。
「このまま武田に属していて良いものか」
この時代の地頭が生き残る為には他の大勢力を頼るか或いは自立するかの二択しかない。義昌程度の器量では自立は難しい、なれば他の勢力に頼るしかない。それには既に武田家は適当ではないではないか。
義昌の思案はそこに至った。しかし、義昌は直ぐに行動には移さなかった。次に頼るべき織田家の動向を見守っていたといっていい。悪く言えば値踏みをしていたのである。
天正八年。
信長を手こずらせた石山本願寺が降伏した、中央で信長の足を常に引きずり回していた仇敵が消えた。信長は遂に天に羽ばたける翼を得たと言っていい。義昌の気持ちも揺らいだ。さらに勝頼は高天神城の救援にも失敗している。武田の武威は既に消滅しかかっていた。にも関わらず勝頼は義昌に新しい城を築くための年賦を課してきたのである。ここ数年の連戦で武田の百姓は塗炭の苦しみを味わっている。
「ここが機会か」
義昌がそのようになかば決した時、目の前に織田家の使いと称する男が現れた。
その正体は妖魔邪眼であった。
しかし、義昌はそんなこととは露知らず、青木左京亮と名乗る邪眼を信じきっていた。いや、信じ切らされていた。
「右府様に、よろしくお伝え下され」
義昌が頭を下げた。その頭を邪眼は見つめ、ニヤリと笑った。邪眼にとってその言質だけで良かった。居並ぶ群臣の前で義昌が織田家につくと言ったことが大事であって、後はその言葉通りにことが運ぶ。何故なら一度出した言葉は取り消せない。仮に本心ではなくともいずれその言葉は勝頼の耳に入るであろう。そうなれば勝頼は義昌を何らかの形で処断せざるを得なくなる。義昌は生き残る為に織田家に奔らざるをえないのである。
「確かに…」
低く邪眼が答えると、義昌ははっと我に帰った。その時には既に邪眼は義昌の眼前にいない。呆気に取られる義昌を家臣が見つめている。
「殿?」
「織田家の使いが今ここにいたか?」
「殿、それは先日のことでござる」
義昌は目を見開いた。さっきまでここに青木左京亮と名乗る織田家の使いがいたではないか。義昌はそう家臣に云った。
「殿、何度も申し上げますがそれは昨日のことでござる。今日は家臣をお呼びなされ、今後の方策を決する評定じゃと仰られたではありませんか」
白昼夢でも見たのか。義昌は頭を押さえた。
「殿、織田家へ奔るのでござるな?」
家臣が念を押した。
「わしがそう申したか」
家臣達は互いに顔を見合わせた。明らかにここ数日の義昌の様子は面妖であった。主家を裏切るのである。義昌は人質を勝頼の下に出している。織田家へ奔るということはその人質の命を奪うことになるのである。家臣達は義昌がその事で苦慮するあまり平静を失っていると判断した。家臣達もまさか常に歴史の暗部で動いてきた妖魔が義昌を催眠術にかけているとは想像も出来なかった。
「人質の件は我らがどうにかいたします」
家臣の一人が義昌に請け合った。
義昌出奔。
その報せを受けた勝頼は激怒した。直ちに義昌の人質である義昌の母と嫡男及び長女を殺した。
その翌日に信長は既にその報せを安土で聞いている。恐るべき諜報網である。仕掛けは光秀が支配下に置く忍衆が極めて機能的に作動したにすぎない。
天正十年二月三日。
信長は甲州への討ち入りを決意した。
毎日、夜が明ける前に隆海は出ていく。
焔士郎はそんな隆海を見ながら、よく働くなと感心している。隆海は日没後に帰ってくる。日が暮れてからは焔士郎の時間である。
二人は昼夜交代で犬山に侵入してくるであろう東国の忍衆を待ち伏せしている。これは左近の指示である。本来であれば、焔士郎ほどの手練れの忍であれば積極的に攻撃に用いたいところであったが、相手の戦力や出方が見えない以上、犬山で誘殺する方がやり易い。
焔士郎もそこは心得ている。
昼間、隆海は真言系の寺に顔が利くようで犬山周辺の寺寺を巡っては異変がないかそれとなく探っている。無論、左近配下の忍が援助はしているが、本職が僧侶だけあって動きに不自然さは微塵もなかった。焔士郎は夜の闇の加護を受けて網を張っている。左近配下の忍のなかにはかつての伊賀衆もおり、顔見知りも何人かいた。焔士郎はそのような連中からの情報を得つつ、犬山で警戒をしている。
信長が甲州征伐を決した翌日のことである。地響きを立てるように棟割り長屋に隆海が駆け込んできた。長屋が崩れる、焔士郎は一瞬ではあったが本気で心配してしまった。
「焔士郎!」
語気は荒いがなるべく音量を落としながら隆海が焔士郎の名を呼んだ。
「いかがした?」
焔士郎がごろりと寝返りをうちながら、隆海の方を向いた。
「お主は呑気じゃな、出たぞ、敵の忍が!」
その隆海の言葉でガバッと焔士郎は太刀を持って立ち上がった。
二人は犬山城に赴いた。堀に人が一人浮いていた。背中を刀でバッサリとやられている。
「あの御仁、右近配下の忍の一人であろう?」
隆海が焔士郎に囁いた。
確かに風体は似ている。やがて城の侍衆が堀の死体を引き上げた。その時に焔士郎はそれとなくを見確かめた。知っている顔であった。伊賀でも名の知れた手練れの一人である。その忍を背中から一刀で殺めているのである。
気が付けば、堀のたもとに人垣が出来つつあった。焔士郎は感じた。
いる。
その人垣の中に、この忍を殺めた忍者が。視線を感じるのである。
(まずいな)
焔士郎は不用意に隆海とここへ来たことを悔いた。ただでさえ目立つ隆海と一緒にいれば目立って仕方がない。それに高野聖と牢人という連れ合いは不自然であった。
焔士郎はさりげなく隆海と距離を開けた。隆海は気付いているのか気付いていないのか堀端をじっと見つめている。やがて隆海は焔士郎が離れていることに気づいて目だけで探した。焔士郎と隆海が目が合うと焔士郎はほんの少しだけ頷いた。それで隆海は悟ったらしく。首をこくこく鳴らしながら、人垣を離れた。焔士郎は横目でそれを確かめつつ、視線の主を探した。その視線は時に離れるが、何度も焔士郎に注がれている。向こうも焔士郎を怪しいと感じている証拠であった。
いた。
人垣の中に薬売りがいた。焔士郎とその薬売りの目が合った。この頃には焔士郎はこの忍を斬ることを決心している。故にわざと目を合わせた。そうすることによって敵を誘い出せるからである。焔士郎の自信の表れでもあった。忍者は闇の中でこそその刀技の真髄を発揮できる。しかし、焔士郎は白昼でも一般的な兵法者のように闘えるのである。並みの忍者とはそこが違った。無論、闇の中でも誰にも負けない自信はあった。
焔士郎は視線を合わせてからわざと急いで視線をそらし、足早に人垣を離れた。
案の定、薬売りは焔士郎の後を尾行けてきた。焔士郎は城下を離れ、やがて人気のないところに薬売りを誘い出した。
やにわに焔士郎は跳躍した。薬売りも跳躍した。空中で鉄と鉄がぶつかり合い火花が散った。空中で撃ち合ってから二人は着地した。既に薬売りはその証しとも言える背負っていた大きな薬箱を下ろしている。その顔は紛れもなく先に街道で沙音と闘りあった風魔の道庵だった。
「甲賀か?いや、伊賀だな」
薬売りこと道庵は忍者刀を逆手に持って低く構えた。焔士郎はゆっくりと振り向きながら太刀を構えた。
「俺が伊賀の忍者だったらどうする?」
「斬る!」
道庵が地を低く駆けて焔士郎に殺到した。焔士郎は受けずにかわしつつ焔士郎得意の手裏剣をはなった。手裏剣が道庵の身体を貫いた。しかし、それは道庵の身体ではなく衣だけであった。本体は既に高く跳躍しており、焔士郎と同じように手裏剣を放った。焔士郎は太刀を逆手に持って手裏剣を弾いた。そして焔士郎は背後を振り向き様に横にびゅっと薙いだ。
その焔士郎の一太刀を道庵は紙一重でよけた。道庵は焔士郎に手裏剣を放つと同時に背後に回り込んでいたのである。焔士郎はそれを看破していた。双方ともに凄まじい業の応酬であった。
しかし、焔士郎も得意の火焔術を見せていない。道庵もその術のすべてをさらしていなのは明白であった。
「東国の忍…、風魔か!?」
焔士郎は探りを入れた。
「如何にも風魔。そういう貴様は奥伊賀の赤目焔士郎!」
「!」
道庵は焔士郎の正体を知っていた。
(間者がいる…!)
焔士郎は一瞬、右近配下の忍の中に東国の忍衆に通じている間者がいる可能性を思案した。それは一瞬であったに過ぎない。しかし、その一瞬の隙を道庵は見逃さなかった。後方に焔士郎との距離を開けつつ跳躍すると手裏剣を放った。焔士郎は慌てて太刀を構えた。かわすには遅すぎる為に太刀で弾こうとしたのである。が、その道庵の手裏剣の軌道が焔士郎を捉えていないために戸惑った。焔士郎の忍としての本能が危険を察知して身をそらしたが間に合わなかった。深々と地面に刺さった手裏剣は的確に焔士郎の影を貫いていた。
(!!)
「動けまい…」
梢の上に立ちながら、道庵が喉の奥で笑った。
(不覚だった)
焔士郎は風魔の忍者の中に影を縫う術者がいると聞いたことがあるのを思い出した。
確かその名は影縫いの道庵。
「貴様がそうか、風魔の影縫いの道庵か」
「互いにこの世界では有名ではないか。火焔の焔士郎」
道庵はひらりと梢から飛び降りた。ゆっくりと焔士郎に歩み寄ってくる。焔士郎は道庵に影を縫われているために動けない。焔士郎は少しずつ己の体がどの程度動けるか確認している。手足が動かなくなってはいるが呼吸等が封じられているわけではない。
「死んでもらおうか」
道庵が忍者刀を焔士郎の首筋に当てようとした瞬間、焔士郎は口内の含み針を吹き飛ばした。道庵は明らかに不意を突かれた。それはほんの一瞬であったに過ぎない。しかし、その一瞬を焔士郎は逃さなかった。道庵が不意を突かれ怯んだ隙に焔士郎は跳躍した。
「含み針とは…!」
道庵は針を刀の柄で防いでいた。焔士郎は梢の上に立っていた。影縫いの道庵が焔士郎の秘術である火焔術の正体を知っている以上、よほど慎重に使わねば勝ち目はない。
「どうした焔士郎、来ないのか?」
梢の上から降りてこない焔士郎を道庵は挑発した。
「お前こそこっちへ来いよ」
そう云って焔士郎は放胆にも梢の上で寝転がった。道庵は迷った。
(隙だらけだ)
刀で斬ろうが、手裏剣で貫こうが、今なら間違いなく焔士郎を殺せる。しかし、出来なかった。この隙は明らかに怪しい。道庵が動に転じた瞬間、真っ二つにされる絵がありありと道庵の脳裏に浮かぶのである。こめかみに滲んだ汗が流れた。そのうち、本当に焔士郎が梢の上で寝転がっているのかわからなくなってきた。あれは焔士郎が仕掛けた変わり身かなにかではないのか。そう感じた瞬間、背後に視線を感じた。道庵はその時に焔士郎の幻術に陥っている自分を発見した。
(恐ろしい相手だ…)
道庵は奥伊賀の焔士郎を殺せば、他の忍はものの数ではないと踏んでいた。昨夜実際に一人殺している。簡単な仕事であった。しかし、それは伊賀の忍の中でも表の忍者であって伊賀忍衆からも化物扱いされている奥伊賀忍者衆を相手に想定したわけではなかった。
「焔士郎殿、何をしている?」
大きな声が雑木林を貫いた。その声に梢の上で寝転がっていた焔士郎は座った。道庵はびくりとした。背後にもう一人の気配を感じる。巨大な声の主は隆海であった。
「そいつが、風魔の忍者だ」
「ほう、こやつが。思ったより小さい男だ」
大きな隆海から見ればどの男も小さく見えるに違いない。焔士郎は計算していたのである。梢の上で寝転がった時に既に隆海が近づいてくることに気づいていた。そこで簡単な目眩ましを道庵に施した。それは単に寝転がっただけであったが、道庵ほどの忍者になると深読みしてしまい動けなくなる。三國志にある諸葛孔明の空城の計に似ている。相手が司馬仲達という煮ても焼いても食えない男だけに通じる術である。
道庵はまんまとかかってしまった。
(あれは目眩ましでもなんでもない、ただの時間稼ぎであったか。しかし、それをうまく利用するとは術者としてやはり焔士郎という男は只者ではない)
焔士郎も道庵もそして隆海もその時、ただならぬ気配を感じた。
「隆海、動くな!!」
焔士郎はそう叫ぶと隆海の傍らに飛び降りた。三人が感じた気配は明らかに忍のそれであった。焔士郎は背筋に汗が流れるのを感じた。感じる気配が、いや殺気が尋常ではなかったからである。
「遅かったな」
道庵が幾分か緊張をやわらげながら云った。
「戸隠四天王。馳せ参じ候」
不気味な声が雑木林の何処かから響いた。
「戸隠四天王だと!!」
焔士郎は周囲を見渡した。信州戸隠を拠点にしている忍衆である戸隠忍者の中でも屈指の術者だと聞いている。風魔に戸隠、東西の忍合戦の様相は誠に凄絶になりつつある。焔士郎はこの時限りは個人主義の伊賀衆であることを呪った瞬間はなかった。甲賀の連中であればこういう場合仲間が援護してくれるが、今の焔士郎には忍相手には未知数の隆海という高野聖しかいなかった。
「焔士郎、終わりだな。さしもの貴様も戸隠四天王相手に勝ち目はないぞ。ましてそのような坊主が仲間にいてはな!」
道庵が勝ち誇って跳躍した。たちどころに梢の間に姿をくらました。
「侮られたものだ」
隆海が嘆息した。
「忍者相手に闘えるのか?」
「焔士郎殿、貴殿には失礼ながら忍も妖魔もかわらぬ」
真面目な顔つきで焔士郎に言う隆海を見て焔士郎は吹き出しそうになった。確かにそうであろう。妖魔も忍もかわらないではないか。どちらも常人からすれば人外の化生に過ぎない。
梢がざわつく。
焔士郎には四つの気配が素早く動きながら距離を詰めて来ていることが感じられた。
隆海は例の六角棒を水平に持つと経を唱え始めた。焔士郎も隆海の背中で呼吸を整えている。
「死ねい!!」
四つの影が同時に二人に殺到した。しかし、常人には分からないがそれは同時ではなかった。焔士郎と隆海を確実に仕留めるべく少しずつ時間をずらしている。同時に殺到すると、かわされた場合に次の攻撃に移りにくい。戸隠四天王はこの時間差攻撃で焔士郎と隆海を仕留めるつもりであった。二人にはかわしようがない。少なくとも戸隠四天王の四人はそう信じていたでであろう。
「ぬん!!」
気合を入れて隆海は地面に六角棒を突き刺した。すると大地が盛り上がり、光の柱が立った。その衝撃に、四天王のうち二人が吹き飛んだ。時間差をつけた残りの二人が焔士郎に殺到する。
その頃には焔士郎も呼吸を完全に整えており、術をかける体勢に入っていた。
刀を振り上げ、
「円陣火焔柱!!」
と、叫ぶと焔士郎と隆海の周囲に火柱が上がった。その火柱は二人を守るように円筒形をしていた。その火柱を一人はかわしたが、もう一人は避けきれず顔面を焼かれた。
「ぎゃあああ!!」
顔面を押さえて一人の忍が地面に転がった。その忍に止めを刺そうと焔士郎が迫ったが、先に隆海に吹き飛ばされたうちの一人が焔士郎を遮った。残りの二人が顔面を焼かれた仲間を回収して森間に消えていった。一分の隙もない素早い動きであった。
焔士郎を遮った忍者はそれを見届けると、
「奥伊賀の焔士郎、その首はしばらく預けておく」
と言った。頭巾の間から覗く瞳が復讐に燃えている。焔士郎は無言で刀を納めた。気が付けば道庵の気配も消えている。そして戸隠四天王の残された一人も跳躍して姿を消した。
「追わぬのか!」
隆海が六角棒をりゅうりゅうとしごきながら、森の中を睨んだ。
「無駄だよ。それに今追えば奴等の術中に陥るようなものさ」
「術でござるか?」
「戸隠四天王、恐るべき相手だ」
隆海が焔士郎を見れば袖口が二寸ほど割かれていた。出血はしていなかったが、焔士郎は紙一重で敵の攻撃をかわしている。しかし、その戸隠四天王の誰がいつどうやったかが焔士郎にはよく分からない。ともかく焔士郎の忍としての本能が敵の攻撃をかわさせたと云っていい。
風魔に戸隠四天王。
それに謎に満ちた遠野の忍衆もそのうち敵となるであろう。
焔士郎は目が眩む思いであった。
織田方の忍衆といえばどれもこれも子粒揃いである。伊賀のおも立つ忍者は昨年の天正伊賀の乱で死んでしまっており、甲賀の忍衆は集団戦法こそ優れているが個人技となれば風魔や戸隠相手では劣る。鞍馬や熊野の忍は既に亡く、頼りになる忍が少ない。
(応仁の頃は九州阿蘇の忍衆が西方の仲間になったと言うが、今の世に術が継承されているか)
焔士郎は思案したが、もし仮に阿蘇の忍衆が仲間になったとしても九州はあまりに遠方過ぎた。
(志津花と共にいたあの女は恐らく鞍馬の忍衆の一人であろう)
焔士郎は今になって志津花の存在が惜しくなった。というより一緒にいた沙音という忍の腕を頼りにしたかっただけであって志津花そのものに戦闘力は期待していない。
しかし、先の隆海のように意外と役に立つかもしれなかった。忍も妖魔も変わらない、という隆海の言葉を思い出した。
焔士郎はちらりと隆海を見た。隆海は自身の大きな腹をさすっている。腹でも空いたのであろう。その仕草はおよそ緊張感というものからは程遠かったがどこか頼もしげに見えた。
「いかがした、拙僧の顔になんぞついとるかの?」
隆海は焔士郎の視線にきづいて破顔した。
「これからの戦いは厳しくなるぞ。隆海、帰るなら今だ」
「がっはははは!!」
突然の哄笑に焔士郎は驚いた。
「どこに帰る場所があるかよ!この隆海、お主と死ぬ覚悟は出来ておるわい」
焔士郎は隆海の覚悟は素直に嬉しかった。
「ふん、好きにしろ」
焔士郎はプイとそっぽを向いたが、顔は笑っていた。無愛想な焔士郎にしては奇跡といえた。
(ともかく、師匠に請うて奥伊賀衆を再結集するしか、奴等に抗する術はなさそうだな)
焔士郎は早速、長屋に戻ると安土にいる師匠のもとへ使いを出した。
天正忍合戦が激しさを増していこうとしていた。
天正十年、二月二日。
武田勝頼は織田方に寝返った木曾義昌の人質を殺害した。そして直ちに武田信豊が5000の兵を率いて先発、勝頼自身も一万の軍勢を率いて新府城を発した。目指すは寝返った木曾義昌のいる木曾谷である。
二月三日。
勝頼出陣の報せを受けた信長は甲州征伐を決意。
先発は森長可と団忠正であり、目附に川尻秀隆がついた。この軍団は美濃方面から信州に進出する。織田信長の動員令は同盟者の徳川家康にも届いた。さらには当時同盟関係にあった関東の北条氏にも出陣要請があり、武田勝頼は東西南から攻め込まれる形勢となった。
「大変な騒ぎですわ」
信州の諏訪に達していた善光寺参りに扮した志津花と沙音は街道に武者がひしめいてしまっており進退に難渋する結果となってしまった。二月十二日のことである。
勝頼は木曾を目指している。甲州から木曾へ至るには諏訪は避けては通れない。そしてこの日、織田信長の嫡子信忠と滝川一益が岐阜城を発している。
「信忠が岐阜を出たという」
諏訪の宿の一室で沙音がどこから仕入れてきた情報なのかは不明ながら志津花に伝えた。
「織田はこの一戦で武田を滅ぼすつもりでいるぞ」
武田が滅ぶ。それは勝頼の死を意味する。妖魔は源氏の由緒正しき血脈である勝頼を怨霊と化すために暗躍を始めるであろう。いや、既に始めているかもしれない。
志津花や沙音は知る由もないが、きっかけとなった木曾義昌の寝返りそのものが妖魔の仕業であった。ともかく志津花は勝頼を救うか妖魔を斃すかのいずれかをせねばならない。
「沙音殿、甲州へ急ぎましょう」
志津花は沙音を急き立てた。
「勝頼が今どこにいるか探らねばなるまい。既に甲州の新府を発しているであろう」
沙音が街道の情報を集めるべく宿の者や他の旅人にそれとなく聞いて回った。
「勝頼はもうじきこの諏訪に着陣するらしい」という情報を得たのが二月十六日である。この日、武田勢は鳥居峠で織田軍の援助を得た木曾義昌に敗退している。織田軍団が信州に雪崩れ込んだ初手から南信の小領主は競うように織田に靡いてしまっている。織田信長が長篠の戦勝で得た果実がようやく実ろうとしてこうしくいる。熟柿が木から落ちるように、武田の凋落も始まった。
「一方的過ぎます」
志津花は諏訪の宿で憂いた。武田の崩壊があまりにも早く、そして織田の勢いがあまりにも凄まじかったからである。
その時である。
二月十六日の薄暮、志津花は不意に悪寒に襲われた。
「志津花殿!?」
両手で二の腕を掴みガタガタと突然震え出した志津花を見て普段は冷静な沙音はやや取り乱した。
「妖魔が…来る…!」
蒼白な顔を上げて志津花は云った。
志津花が察知した通り、その時諏訪の宿場に邪眼が足を踏み入れていた。そしてもう一人の妖魔が諏訪に来ていた。
二人の妖魔は諏訪湖の畔で深更に邂逅した。
「邪眼、貴様の役目は東西の忍衆同士を戦わせることであろう」
「その目的は既に達した。私はさらに四郎勝頼を怨霊とすべく動いている、それだけだ」
「…」
「いけないか、信貴の羅焦」
羅焦と呼ばれた妖魔は眉をひきつらせた。あの時、外法僧の格好に化けていた妖魔である。
「邪眼、貴様の悪い癖だ。なまじ頭が切れる故に独断が多いわ」
「ふん。私がこっちで暗躍していることを察して、動き出した伊賀や言霊の一族の目が自然とこちらに向いているわ」
「囮になるつもりか、そのような殊勝なことをお主がするとはな」
「けっ」
邪眼はそっぽを向いた。
「ともかく、我ら主がお呼びだ。直ぐに姫路へ帰ってこい」
「羅焦、貴様の指図には従わぬぞ」
邪眼が羅焦を指差した。
「ワシの指図ではない。主が呼んでおるのだ。噴牙と怨角を既に失っておるのだ、我等が悲願の成就のためにこれ以上、我等が同胞を失う訳にいかぬのだ」
「けっ、この俺が言霊の一族や忍に討たれるかよ!姫路に戻って主に伝えよ、悲願の成就のために邪眼の陰謀は順調に進んでおりますとな!」
邪眼は怒気を発した。邪眼の足下に闇がひろがる。
「待て」
羅焦が手を上げて邪眼を制した。
「どうやら客だ」
葦の原の向こうに人影が見えた。その人影の正体は志津花と沙音である。
「先程の瘴気、間違いありませぬ」
志津花が傍らの沙音に云った。
「ふむ、だが気付かれたようだ」
志津花がただならぬ殺気に気付いて上を向いた時はそこに跳躍していた邪眼がいた。
「!」
空中で邪眼が両手を広げた。凶々しい爪がにゅうっと伸びた。
「忍か!!!死ね!!!」
邪眼は着地と同時に凶爪を振り回した。志津花はかがみ、沙音は後方に跳躍して邪眼の攻撃をかわす。沙音は跳躍と同時に装束を脱ぎ捨て忍の姿になった。そして両手を振り上げた。風が轟く。
「風使い!鞍馬の天狗か、面白い!!」
巻き起こる風の中で邪眼が不敵に微笑んだ。
「余裕だな!」
沙音は巻き起こった風に向かってさらに両手を交差させた。すると風の中に真空が生じて鋭い刃と化し邪眼に迫った。しかし、その真空の刃は邪眼の身体を通り抜けた。真空の刃は邪眼の背後の葦を薙ぎ払いさらにその後ろにあった巨木をすぱりと切り倒した。
「何処を見ていた?」
邪眼はいつの間にか沙音の背後にいた。沙音は驚愕した。いつの間に背後に回ったのか、全く沙音にはわからなかった。しかし、二人の戦いを一部始終見ていた志津花は邪眼が始めから沙音の背後にいたことを知っている。
幻術であった。邪眼の邪眼たる所以である。
(ちっ!)
沙音は内心舌打ちした。
(迂闊だった…)
妖魔が真っ正面から挑んで来ているのである。何か術策があって当然である。沙音は妖魔に対して真っ正面から受けたことに後悔した。
「死ね!!」
邪眼の凶爪を沙音は小太刀で受けたが、沙音は二間ほど吹き飛ばされた。凄まじい攻撃である。沙音は空中で体勢をくるくると回転させて整えると着地した。そこへ邪眼が迫る。
。邪眼は志津花の存在を忘れている。目の前のいかにも忍である沙音を引き裂く事のみに囚われすぎていた。
立て続けに銃声が諏訪湖の畔に轟いた。志津花自慢の短筒が火を吹いた。銀製の弾丸が邪眼に迫った。
「!!」
邪眼は沙音の手前で跳躍して弾丸を避けた。沙音も邪眼を追うべく跳躍した。掌に念を込めて風を呼ぶ。志津花も空中の邪眼に二丁の短筒の照準を合わせた。
「邪眼よ苦戦しているようだな」
志津花の目の前にぬっと人影が立った。それは志津花に背中を向けていたが、邪眼や淀で焔士郎と斃したあの妖魔とは存在感が違った。
(こいつ…やばい!!)
志津花は銃口を羅焦の背中に向けた。
「女、その武器は生駒の噴牙には効いたかもしれぬが、ワシには通ぜぬぞ」
羅焦はゆっくりと振り向いた。志津花は引き金を引いた。弾丸が放たれる。羅焦はゆったりとした所作で手をかざした。弾丸が羅焦の手前で溶解した。
「!!」
志津花は咄嗟に飛び退いた。羅焦の周囲の異常なまでの高温に耐えられなかったからである。急激に熱せられた空気がゆらめく。
沙音は突如訪れた志津花の危機に邪眼を無視して羅焦に向かって空中から一文字手裏剣を放った。手裏剣が風を纏い、凄まじい速度で羅焦に迫った。しかし、羅焦に到達する直前に一文字手裏剣までもが溶解した。
「馬鹿め!!」
手裏剣を投じた後の隙だらけの沙音に強烈な蹴りを邪眼は浴びせた。葦の原に沙音は叩きつけられるように落ちた。
「まず一人」
「沙音!!」
志津花が沙音のもとへ急ごうとするのを羅焦が遮った。
「女よ、他人の心配をしている場合ではないぞ」
志津花の眼前に真っ赤に燃え上がった拳を振り上げる羅焦がいた。その羅焦を一陣の風が襲った。
「生きていたか!」
葦の原から沙音が立ち上がり、風を起こしたのである。
「邪眼!詰めがあまいぞ!」
巻き起こる風にさらされ羅焦の体が急激に冷えていく。沙音は跳躍した。
「いかに妖魔とはいえ、風の刃を溶かすことはできまい。くらえ!」
沙音が腕を横に薙ぐと風の中に真空が生じて鋭い刃と化し、羅焦に迫った。羅焦はかろうじて身をよじってかわしたが、右の腕が切断された。
羅焦は切断された己の腕を冷厳と見つめると残った左腕を沙音に向かって振り上げた。
熱風。
羅焦の拳が繰り出す衝撃は全てを焦がし尽くす熱風となって沙音を襲った。沙音は辛うじて自分の周囲に風の防護壁を形成して熱風から身を守った。しかし、熱風の勢いに圧されて地上に再び叩きつけられた。そこに志津花が駆けつけた。
「沙音!!」
志津花は沙音を抱き起こすと懐から口径の大きい短筒を取り出すと羅焦に向かって引き金を引いた。ゆっくりとした速度で大きな弾が羅焦に向かって飛んでいく。
「無駄だ」
羅焦はかわすつもりはなかった。
「羅焦、それはいかんぞ!」
邪眼がそのように警告した次の瞬間だった。志津花の放った弾は空中で弾けて周囲に煙が立ち込めた。しかもその煙には古来より魔除けの効果があると言われる柊の成分が含まれていた。煙を浴びた邪眼と羅焦は悶絶した。
「おのれ!!小娘どもが!!!」
羅焦が凄まじい怒気を発した時には志津花と沙音の姿はどこにもなかった。
「ふん。逃げおったか。ともかく」
羅焦は直ぐに平静に戻ると、傍らに落ちて転がっている自らの腕を拾いながら邪眼を睨んだ。
「ともかく、何だ?」
「甲州の仕事をさっさと終わらせて、姫路へ戻れ」
「ふん、言われるまでもないわ」
その邪眼の言葉を聞き終えると羅焦は腕をくっ付けた。驚くべきことに腕が元通りにくっついた。
「邪眼、さっきの二人は早々に始末した方が良いな」
「姫路でも云ったであろう。忍は忍に始末させる。風魔、戸隠、遠野の連中が既にワシの下知に従っておる」
羅焦はしばらく諏訪湖の湖面を眺めていた。
姫路で待っておる、と言い残すと羅焦の体が地中に消えていった。その姿を見ながら邪眼は唾棄した。
志津花は沙音に肩を貸しながら宿に戻った。
「志津花殿、すまない」
沙音は部屋に倒れるように寝転がると志津花に謝した。沙音が自分自身で身体を確認したがどうやら軽い打撲と火傷程度ですんでいるようであった。志津花は手際よく耳だらいに水を満たし、手拭いで沙音の火傷の痕を冷やした。
「恐ろしい力をもった妖魔でしたね」
志津花が沙音の傷口を拭いながら云った。
恐ろしい力。沙音は内心で臍を噛む思いであった。鞍馬の忍として術を練磨してきたこれまでの人生の中で己の力を上回る者に沙音は出会ったことがなかった。忍としての己の力量に慢心があった。妖魔は人外の化生である。もっと警戒して然るべきであった。
「志津花殿」
「はい?」
志津花は手を止めて沙音の顔を見た。あどけない黒目の大きな瞳が沙音を見つめている。
「甲州へ急ごう。織田と武田では最早勝負にならない。この戦、直ぐに終る」
「勝頼を落ち延びさせましょう。死なぬ限り、怨霊にはなりますまい」
妖魔の狙いは織田信長によって武田勝頼が無念のうちに死ぬことである。この世に激しい未練を残し、かつその死に方が無念であればあるほど怨霊としての力がます。その怨霊によって過去に鎮魂された荒魂を再び世に再臨させ、天つ神の支配に完全に終止符をうつのである。
翌朝、志津花と沙音は諏訪を発った。中仙道は武田の兵で満ちているため、二人は杣道のような山中の道を通って甲州を目指した。