天正妖魔異伝 第九話 影縫い

第九話:影縫い

 

一方、志津花と沙音も道を急いでいる。二人が諏訪を立って暫くして勝頼率いる本軍が諏訪に着陣した。志津花と沙音は主街道を避けていたために危うく入れ違いになるところであったが志津花の機転でともかく諏訪に引き返した。諏訪に着陣した勝頼であったが既に南信の中心地とも云うべき飯田城を失っており、駿河、上野方面の戦況も芳しくなかった。

「勝頼殿にどうにか接触したい」

志津花は足掻くように思ったが容易に会えるはずもなかった。戦で人気が荒れている。不容易に接触を試みて露見すれば間違いなく殺されるであろう。

しかし、急がねば勝頼が死んでしまう。勝頼の無念の死こそ妖魔の望むものであり、志津花がもっとも忌むものであった。忍である沙音は夜陰に紛れて勝頼の寝所に忍び込むことは容易であるが、この場合志津花が勝頼に会わねば意味がない。沙音が侵入しても恐らく勝頼は妖魔の話を信じないばかりか織田の刺客とみて騒ぎ出すに相違なかった。もっとも言霊の一族である志津花の話でさえ勝頼は信じるかどうか疑わしい。

「こうなったらどさくさに紛れて勝頼を落ち延びさせるしか手がなさそうね」

この沙音の提案に志津花は黙って頷いた。志津花は胸騒ぎがしてならなかった。この信州で妖魔の悲願が叶うのではなかろうか。考え出すと志津花はいてもたってもいられなくなった。しかし、八方塞がりであることは変わらなかった。

二月二十八日。勝頼は着陣した諏訪を引き払った。

その翌日。

織田の軍勢は伊那の高遠城を包囲している。包囲を開始したのは三月一日である。籠城する武田側の武将は仁科盛信である。勝頼の異母弟であり信玄の五男である。南信の小領主が先を競うように織田に靡く中、御家門である盛信は高遠に籠り頑強に抵抗していた。

しかし、織田軍の猛攻の前に高遠城も陥落。

これによって武田軍は完全に崩壊したと言っていい。

既に勝頼の周囲には1000人ほどの兵しかいない。亡父信玄が生涯をかけて築いた武田の勢威は織田信長という名前に象徴される時勢の前に脆くも崩れ去った。勝頼自身、なぜこうも容易く崩壊していくのか理解できなかったであろう。いや、理解できなかったからこそ、織田信長に破れるのである。

志津花と沙音は急いだ。

急がねば勝頼が死ぬ。

二人が急いで諏訪を発とうとした時、志津花は道を急ぐ焔士郎を見た。

「あ!」

思わず叫んでしまった志津花は焔士郎を目指して駆け出した。

「焔士郎様!」

志津花が近付くと隆海のでかい体と相変わらず妖気を漂わしている迅十郎もいた。

諏訪には既に織田の先鋒隊が入り込んで来ている。諏訪の宿場町がきな臭くなっている。どこかで何かが燃えているかも知れなかった。志津花は後日、武田の支配下にあった諏訪大社が織田軍の手によって燃やされたということを聞かされた。

焔士郎は小柄な少女が自分の名前を呼びながら近付いてくるのをみて溜め息をついてしまった。

焔士郎は性分として単独行動を好む。

それは最早伊賀の忍の宿命とも云うべき個癖であった。

「おほ!」

機嫌が良さそうな声を出したのは隆海だった。隆海の後ろには先の戦いで捕らえた遠野の忍である霞がいた。霞の姿を見て志津花は思わず怪訝そうな顔をした。霞は捕らえられた時は忍装束であったが今は善光寺詣りに行く町娘の姿になっている。

「誰です?」

志津花は焔士郎との再会を喜ぶよりも先に霞という存在に対して警戒してしまった。志津花自身それが焔士郎に対する嫉妬からきているとは不覚にも気付いていない。

「お前には関係ない」

相変わらず素っ気ない焔士郎に志津花は腹を立ててしまった。

「関係なくなどありませぬ」

「よお、嬢ちゃん。犬山以来だな」

迅十郎が屈託なく志津花に笑いかけた。しかしその声も逆上している志津花の耳には届かない。

「我等は眼中に無い様子でござる」

隆海が同情に溢れた顔つきで迅十郎の肩をぽんぽんと叩いた。

「その者、忍か?」

いつの間にか焔士郎の傍らにいた沙音が指すような視線を霞に注ぎながら焔士郎に訊ねた。

「ああ、木曽の辺りで捕らえた」

「他にも二人いてな。それが大層美しい」

横から隆海が割り込んできた。隆海は焔士郎に代わってことの経緯を簡単に説明した。木曽で襲われその時に捕らえた件、そして次の宿場で気を失った霞を目覚めさせ焔士郎があれやこれやと尋問したが、霞は一言も喋らないこと、焔士郎は放逐しようとしたが、隆海がそれを憐れんだこと、等を簡潔に語った。

「他の二人はどうした?」

「逃げた」

焔士郎が短くこたえた。

逃げたと聞いて、沙音は忍としてこの忍がどのような運命に陥るかを考えてしまっていた。目の前にいる女忍者は生きている。忍者が敵方に捕らえられるのは最大の屈辱と言っていい。普通ならば自害していてもおかしくない。

策略か。

沙音は同じ忍であるためそのように勘繰った。当然であろう。もしかしたら焔士郎等を何らかの策略に陥れるためにあえて捕まった可能性もある。

「焔士郎」

「ふむ」

「この女を殺せ」

沙音は短く他の者に聞き取れぬように低く焔士郎に言った。

「分かっている。しかし背後にいる者を誘き出すのに使い道はあるかもしれない」

「お前らしくない」

「黙れ。俺はまだ鞍馬の天狗を信用したわけではない」

ふん、と沙音は短く嘆息すると志津花の方を向いた。志津花は相変わらず刺すような視線を霞に注いでいる。志津花の胸中では焔士郎と霞が男女の間柄になってはしないかと疑っているのである。

(それは困ります)

志津花は沙音の視線に気付いて慌てて焔士郎の方を向いた。急いで取り繕っている自分を客観的に見た志津花は自分自身がわからなかった。それが焔士郎に対する恋だと気付くほど彼女はまだ成熟していない。

「焔士郎様」

志津花は狼狽を隠すため、やや強い語調で焔士郎の名を呼んだ。

「諏訪へは何をしに?」

焔士郎に志津花は目的を聞いた。

「勝頼を落ち延びさせる」

焔士郎にしては珍しくは素直に目的を話した。それが犬山を発した理由であり明智光秀配下の右近の指図であった。

「では、目的は同じですね」

「…」

焔士郎は志津花の顔をじっと見つめながら思案した。いつの間にか妖魔を退治ることに巻き込まれた自分を少し嘲笑したくなったが、熊野の火焔術を体得した者の宿命かもしれず、不思議と腹はたたなかった。それよりも木曽で逃がした残りの女忍者や犬山で相対した風魔や戸隠の忍のことが気がかりであった。恐らく襲ってくるであろう。味方は一人でも多い方がいい。

「目的が同じなら協力しても良い」

焔士郎の言葉に志津花の顔が綻んだ。黒目の大きな瞳が少し潤んでいる。その瞳に焔士郎は疼くように欲情したが抑えた。

「おい」

焔士郎の思案を遮るように迅十郎が声をかけた。

「早々に武田軍の後を追った方がいいぜ。既に織田が来ている」

迅十郎が顎で指した方向にちらほら織田軍の先鋒隊らしき人影が見え隠れしていた。一行は迅十郎に促されるままに街道から外れた。そのときに霞は織田軍の先鋒隊の一人に目で合図を送っていた。その姿を焔士郎は目敏く見つけていたが黙っていた。

毒を食らわば皿までだ、と焔士郎は思っていた。焔士郎の胸中にはもしかしたら何処かで霞等を説得して対妖魔の戦いに引き込もうという魂胆があるかもしれなかった。妖魔を退治る術者である可能性のある氷術使いの遠野の忍を敵にはしたくないのである。

「さあて兵衛さんよ、お仲間の気配はするかい?」

迅十郎が腰から太刀を鞘ぐるみ抜くと太刀に話しかけた。焔士郎等は慣れきっているが、捕らえられて間もない霞は刀に話しかける迅十郎を見てぎょっとした。やがて、

「仲間とは人聞きが悪い」

と兵衛が悪態をついた。その声は紛れもなく刀から聞こえるのである。

「南東の方向に妖魔の気配は感じる」

「私も同じですが…」

同じく妖魔の気配を感じることのできる志津花も同意したが、語尾を濁らせた。

「どうかしたのか?」

焔士郎が志津花に問うた。

「いえ」

志津花は何にもない素振りを見せたが、内心では不安でいっぱいであった。先日諏訪で沙音と共に戦ったあの二体の妖魔の力はこれまでの妖魔とは明らかに異なっていた。その妖魔の気配を確かに甲州の方に感じるのだが、あの時とは明らかに感じる瘴気が弱いのである。すなわち、どちらか一方の妖魔しか甲州にはいないのである。妖魔の目的は怨霊の誕生にある。怨霊の資格者には今のこの世に武田勝頼がもっとも適している。妖魔が勝頼を怨霊とすべく暗躍していることは間違いない。しかし、本当にそれが妖魔の目的であろうか。

ともかく志津花は目の前にで繰り広げられつつある妖魔の野望を阻止することが先決であると自分に言い聞かせ、勝頼のもとへ急いだ。


場面は犬山に戻る。

数日前まで自信たっぷりであった不知火藤兵衛は戦慄していた。

毎日配下の忍が一人ずつ殺されていくのである。

今朝も一人、背中から一突きにされて殺されていた。殺された忍は伊賀衆の中でも抜きん出た手練れであった。背中から一突きに刺されて不覚をとるような忍ではない。しかもその死体は藤兵衛が焔士郎から預かっている棟割長屋のすぐそばに捨てられているのである。明らかに敵は藤兵衛が伊賀衆を宰領していることとそこにいることを知っている証拠であった。切断された腕が庭に落ちていることもあった。

(ワシを精神的に追い込むつもりじゃな)

その手には乗らぬ。

3月1日の夕刻、藤兵衛は放下師の風体に扮して棟割長屋を出た。

藤兵衛がこのように表に出るのは焔士郎から犬山を任されてから初めてのことであった。

予想した通り、藤兵衛が長屋を出た直後から粘つくような視線が藤兵衛の後頭部に注がれているのを感じた。

(ふふふ、果たして敵は何人かの?)

藤兵衛は犬山の城下をそぞろに歩きながら背後の気配を探りつつどこかで楽しんでいた。忍の世界に身をおいて生涯を送ってきた。この程度の修羅場は日常茶飯事であり、藤兵衛の心のなかにはそれを楽しむゆとりもある。

しかし、藤兵衛は背後の気配を探っているうちに相対している忍の業が並みのもではないことに気付き始めた。

背後の視線は時に複数になり、時にひとつにもなる。しかも、すぐ背後にその気配を感じるときもあり、冷や汗を流す瞬間もあった。

藤兵衛は知らず知らずのうちに相手の術中に陥っていることに不覚にも気付いていない。

(これは…)

藤兵衛が気づいたときは既に相手の忍によって郊外の人気のない草原に誘い込まれていた。

「ふふふ、この不知火藤兵衛、不覚であったわ」

放下師の装束を捨てて忍装束に改めた。相手の術中に落ちたのは半ば作戦であり、半ば不覚であった。どちらにせよ、風魔の忍と伊賀の忍が犬山の郊外で忍の技を競おうとしていることに違いはない。

陽が西に傾きつつある。

藤兵衛から見て夕陽を背にいつの間にか一人の忍者がいた。

「お初にお目にかかる。某、風魔が忍道庵でござる」

「名乗らぬともワシの名は存じておろう」

「いかにも。奥伊賀の不知火藤兵衛殿」

「ふふふ」

藤兵衛はこれから命の駆け引きをしようというのに顔が緩んでしまうことを制御できなかった。しかし、それでも風魔が一対一で勝負を挑んでくるとは思えない。相手は放胆にも姿を曝け出しているのである。道庵の配下の忍が何処かに密かに藤兵衛を狙っているに違いない。藤兵衛は道庵に視線を注ぎつつも周囲の気配を探ったが風魔の気配は容易に探れない。

「参る」

道庵は藤兵衛の注意がほんの僅かながら下がった瞬間を見逃さずその隙をついて一足飛びに藤兵衛に迫ると斬撃を浴びせた。

藤兵衛は油断を衝かれたわけではなかったが、夕陽を背に迫る道庵に対して遅れをとったのは事実であった。藤兵衛はとっさに刀を抜かずにひらりとかわした。かわしつつ、草原に臥せて姿を眩ました。

「!」

「どうした影縫いの道庵」

藤兵衛の余裕に満ちた声が聞こえる。夕陽がもうじき完全に沈もうとしている。

「おぬしの影縫いの術は陽が沈んでしまえば毛ほどの役にも立つまい」

草が揺れた。

その場所に道庵の配下が投じた手矢が突き刺さった。

「ふふふ配下の忍は三人か」

藤兵衛の不気味な声がした直後、呻き声と共に一人の忍が道庵の背後で立ちあがり、やがて倒れた。喉が掻き切られている。恐らく藤兵衛がその忍の背後から匕首でやったものと思われる。

「…」

道庵は沈黙している。

無論、藤兵衛は忍の一人を斃した直後に位置を変えている。変えながら、道庵の動きを気配で察しようとしている。同時に道庵配下の忍の位置を見定めるべく気配を探ることも怠っていない。

老練、というより老獪であった。

陽が西の山並みに向こうへ沈もうとしている。大地が赤く焦がされたように染め上げられている。丈の低い葦の中の道庵の影が長く伸びている。

相手は影を操る術者である。藤兵衛は道庵の影を避けつつ配下の忍の位置をほぼ特定していた。

(傍らの梢に一人、あの岩影にもう一人)

道庵は地面にさらに低く這いつくばると、地面をばんと叩いた。次の瞬間、木立の上にいた。その木立は道庵配下の忍が潜んでいる梢のさらに上である。とても老齢とは思えない動きであった。

「!」

道庵配下の忍が藤兵衛に気付いた直後、背後から首を締め上げられた。暫くして動かなくなった。藤兵衛は鮮やかに扼殺した。

藤兵衛が扼殺した忍から手を離すと梢からずるりと落ちて大きい音を立てた。そこへ道庵ともう一人の忍が放った手矢が殺到した。無論、串刺しにされたのは藤兵衛によって殺された風魔の忍である。

陽がほぼ沈みかけている。

藤兵衛は時間を稼いでいる。陽が沈み、闇が周囲を覆ってしまえば影は生まれない。影を操る道庵にとって夜の闇は不利になる材料でしかなかった。

道庵は相変わらず姿を晒したまま動かない。必死に藤兵衛の気配を探っている。

西の山並みに陽が吸い込まれるように消えかける頃、岩影の忍の額に藤兵衛の十字手裏剣がぐさりと刺さった。

風魔の忍が額から血を噴き出しながらゆっくりと倒れた。それと同時に陽が沈み周囲は墨を流したように闇に包まれていく。

「どうだ道庵とやら、お主の配下の忍を全て殺した上に夜の帳が辺りを包んでおる。もうお主の自慢の術も使えまい」

藤兵衛は道庵を挑発しつつ葦の原に立ち尽くす道庵の背後に迫りつつあった。

「ふははははははは!」

藤兵衛が小太刀を振りかざして立ち上がった直後に道庵が哄笑した。

「!」

「藤兵衛、時間稼ぎをしていたのは御主ではない。我よ!」

道庵が素早く念を結んだ。

「風魔忍法、影呪縛」

「しまった!!!」

道庵は察した。道庵の術が影を縫い相手の動きを封じるだけの術であると思い込んでいた。道庵にとって夜の闇そのものが味方であった。いや、なお正確に言えば、夜と言うものは大地が太陽の影に入るということであるため、闇そのものが影であり、操ることが出来るのである。

藤兵衛が危機を察して跳躍するよりも早く大地がにゅうっと盛り上がり藤兵衛の足を絡めた。いや大地ではなく闇が盛り上がったと言うべきか。

闇は藤兵衛の足から腰、さらに胴を包み込みそれだけではなく藤兵衛の小さな体ごと持ち上げてしまった。

「ぬん!」

道庵がさらに念を込めると闇が藤兵衛の体を締め上げた。藤兵衛はがんじがらめにされて仰向けにされた。

「ぐお」

藤兵衛の口から血が滴った。

「老人の悪い癖だ。直ぐに歳下の術者を侮る。夜が影そのものだと気付かなかった御主の敗けだ」

道庵は太刀を抜きながらゆっくりと空中で縛り上げられている藤兵衛の直ぐ下に歩み寄った。

「待て」

道庵を制したのは藤兵衛ではなかった。いつの間にか道庵の背後に光秀配下の忍を宰領している右近がそこにいた。

「…」

藤兵衛は縛り上げられているため声がでなかったが、不覚にも右近が近付いていることに気付かなかった。道庵を侮ったことといい右近の気配を探れなかったことといい藤兵衛にとって屈辱の多いことであった。

(老いとはこういうことか)

藤兵衛は死を眼前にして自らの敗因を顧慮していた。死を最早決している。

「右近殿、この男は危険でござる。ここで殺すにこしたことはない」

「確かに。しかし赤目焔士郎の方が、質が悪い。そこでこの不知火藤兵衛を利用するのだ」

道庵は訝しんだ。奥伊賀の藤兵衛がそう簡単に籠絡できようとは思えない。

「ふん。拙者に考えがある。そいつをはなせ」

道庵は暫く考えていたが、やがて意を決すると影呪縛を解いた。どさりと藤兵衛の体が地に落ちた。

「どうするつもりだ?」

「考えがあると言ったであろう。お主は赤目焔士郎を追え。最早犬山での忍決戦はお主ら風魔衆の勝ちだ」

「…」

道庵はどうにもこの右近が苦手であった。忍を明らかに見下している。忍である道庵はそのような扱いには慣れきってもいるし耐えるだけの精神力を持っている。しかし、右近のそれには何か異なるモノを感じるのである。それが何か見定めがつかないために道庵は常にこの右近をどこかで警戒している。

「わかった。焔士郎を追おう」

道庵はそう言い残すと夜の闇の中に吸い込まれるように消えていった。

藤兵衛は影によって縛られた時に右腕の骨とあばら骨の数本を折られている。痛みは辛くはなかったが動けない。

右近は動けずに地面に転がっている藤兵衛に歩み寄ると冷厳と見下ろした。

「裏切り者め、と言いたいような顔だな」

裏切り者。

確かに右近は裏切っている。しかし、藤兵衛の胸中その事に関して特別に侮蔑したり憎んだりと言うことは無いかあったとしても希薄であった。伊賀の忍とはそういうことに極めてドライである。これが正規の武士から忌み嫌われる伊賀衆の宿命であった。故に右近の推量は間違っているが、その事に藤兵衛は少しの疑問を感じた。

(こいつは忍ではない)

かといって一般の武士とも違うのである。藤兵衛は右近の正体を掴みかねていた。

「ふふふ、拙者はもとより十兵衛光秀を利用しているに過ぎないのだ。我が主の命によってな」

右近は藤兵衛の胸ぐらを掴むと軽々と持ち上げた。急に動かされたために骨折した箇所が身を切られたように痛んだ。苦痛にさすがの藤兵衛も顔が歪んだ。

改めて藤兵衛は右近の顔を見た。

犬山の棟割長屋で幾度か見かけたことがあるが、その時とは明らかに印象が異なる。顔は特徴の無いのが特徴といったようにどこにでもあるような顔である。

「忍は滅ぶ。それは信長の手ではなく我らの手によって滅ぼされるのだ」

右近はやにわに藤兵衛の顔を掴んだ。

藤兵衛はその時、右近の正体が知れた。何故なら藤兵衛の顔を掴んでいる右近の手が人間のそれではなかったからである。

赤銅色の肌に禍禍しい爪、それに放たれる瘴気によって掴まれた藤兵衛は焼かれるような痛みを感じた。

「何をする気だ!!」

気力を振り絞って藤兵衛は叫んだ。

「今に分かるさ」

右近はニヤリと笑った。最早その顔も妖魔そのものであった。

右近は妖魔であった。

やがて、闇夜の葦の原に藤兵衛の叫び声が響いた。

同刻、異なる場所。

焔士郎は勝頼を求めて道を急いでいる。ふと、呼ばれた気がして焔士郎は後ろに振り向いた。

「どうしました?」

志津花が焔士郎を気にして脚を止めた。焔士郎が見るとそこにあどけない黒目の大きな瞳があった。

「いや、何でもない。急ごうもうじき陽もくれる」

「はい」

焔士郎は再び脚を早めた。迅十郎と隆海の背中があった。さらに志津花を守るように沙音がいる。そして何も言わずについてきている遠野の忍である霞もいた。

(今、師匠の声が聞こえた気がしたが…)

焔士郎は気のせいだと自分に言い聞かせた。