天正妖魔異伝 第八話 天正忍合戦

第八話:天正忍合戦

 

志津香と沙音の二人が甲州に向かった頃、一人の男が諏訪に入った。

よれよれの衣服に似合わぬ立派な拵えの大小を腰に差している。

伊庭迅十郎であった。

「おう、あれを見ろ兵衛。湖だぞ、ようやく甲州に着いたわ」

「湖があれば甲州なのか?」

「細かいことを気にするなよ」

「気にするわさ、お前の方向感覚の無さは比類がないでの」

迅十郎は自信ありげに諏訪の宿場町に入ると、適当に宿を見つけ、かまちで草鞋を脱ぎながら宿の主にさりげなくここは甲州の何処かと問うた。

「…」

宿の主が不思議そうな顔で迅十郎を見つめている。

「お戯れはよしてください、ここは信州の諏訪ですよ」

次は迅十郎が不思議そうな顔をする番であった。

「ではあの湖は?」

「はい、諏訪の湖です」

「道々に武田家の武者がおるではないか」

「織田との戦でございます」

迅十郎は思わず絶句してしまった。

犬山で焔士郎らと別れた後、再び山中をぐるぐると回るように歩いた。東の方向で何となく妖魔がざわついている、という兵衛の言葉に従って何となく甲州を目指していたが、肝心の足である迅十郎の類いまれなる破壊的方向音痴のお陰で一時は越中にいた。それでも諦めずに歩き続けようやく甲州にたどり着いたと思ったらそこは甲州だと言う。迅十郎の頭の中の地図では越中の南は信州を通り越して甲州ということになっているらしい。

迅十郎はがくりと頭を垂れてしまった。兵衛は笑いをこらえている。直ぐに迅十郎は立ち直った。

「そもそも甲州を明確に目指していたわけではない!」

と、自分に迅十郎は言い聞かせ、部屋に入るとごろりと寝転がった。兵衛もそれもそうだと感じながら刀の中で大人しくしていた。兵衛は感じていた。ただならぬ、同族の気配を。

それは先に志津花や沙音と激闘を繰り広げた邪眼と羅焦という妖魔の気配であったが、兵衛にはさすがにそこまでは分からない。

兵衛が気づくと迅十郎が隣室に通じる襖を少しだけ開けて覗いていた。

「おぬし、何をしている?」

「うるさい、静かにしろ」

兵衛は自分の声が聞こえるものにしか聞こえないのに静かにしろと言う迅十郎が可笑しかったが、覗き見している迅十郎の悪趣味に辟易した。

「何が見える?」

兵衛もついつい迅十郎が何を覗き見しているのかが気になった。

「別嬪だぜ、あらぁ」

迅十郎が襖をそっと閉めて戻ってきた。

「別嬪?女がいるのか?」

兵衛の問いに迅十郎は黙って頷いた。そして再び襖をそっと開けて再び覗きだした。兵衛は溜め息をついた。迅十郎という男は、腕は立つくせに方向音痴と女に極端に弱いという欠点がある。もっともその欠点が迅十郎の愛嬌になっている。天性が前向きで明朗な質であるため、陰湿な印象を周囲には与えない。

迅十郎が覗き見している隣室には確かに女性がいた。それも三人連れである。顔形が何処か似通っているのは姉妹かもしれなかった。

翌朝、迅十郎は諏訪を発つべく宿の玄関先で準備をしていると、隣室で宿泊していた三姉妹も同じように準備をしていた。

「お武家様はどちらへ」

末女と思われるまだ顔に童臭の残る娘が迅十郎に問うた。迅十郎が見ると吸い込まれそうな美しさであった。上方には少ない目鼻立ちのくっきりした美人である。迅十郎は一瞬で骨抜きにされてしまった。

「行くあてのない旅路でござる」

迅十郎は必要もないのに格好をつけてしまった。もっともこの時代に迅十郎の台詞が気障ったらしく女性に聞こえるかどうかは筆者にも迅十郎にも分からない。

「あの…」

末女が何かを言いかけるのを長女らしい、淑やかな女が制した。

「お武家様に迷惑でしょう?よしなさい、お雪」

お雪と呼ばれた末女は不服そうな顔を長女に向けた。

「でも、雹お姉さま…」

長女の名前は雹というらしい。変わった名前だな、と迅十郎は思ったが長女の類いまれなる美しさに鼻の下がすっかり伸びきってしまっている。

「いえ、迷惑ではござらぬよ」

迅十郎は再び格好をつけた。

「ではあの、道中ご一緒させてもらってもよろしゅうございますか?」

雪が迅十郎の手をとるように云った。

「どちらへ向かうのでござるか?」

「美濃でございます」

美濃。

迅十郎はそこから来た。随分遠回りしたが、来た道を戻ることになる。

「雹お姉さま、雪があのように言い出すと、何を言っても無駄ですわ」

さっさと旅支度を終えている次女が雹の耳に口を寄せて云った。

「そうね、霞」

次女の名は霞というらしかった。誇りの高そうな長女雹、童臭の残る末女雪、それに流れるような仕草の端々に妖艶な色気を醸し出している次女霞。

迅十郎は旅路に待ち受ける艶めいた事々を思うと、それだけで男子の鉄腸が蕩け行くのを感じる。すっかり骨抜きにされつつある迅十郎を見て兵衛は大きな溜め息をついた。

ようするに迅十郎は三姉妹の旅路における護衛を頼まれたに過ぎない。だが、迅十郎は意気軒昂と道を歩いた。迅十郎の頭の中は今宵の臥所の中に跳躍してしまっている。地に足が完全についていなかった。


「遠藤式部殿はおられるか」

嗄れた声が犬山の武家長屋の前でそのように呼ばわった。天正十年の二月二十日である。この間も戦は進行しているが、信長はまだ出馬していない。

「誰だ?」

隆海が巨体をゆすって奥から出てきた。隆海の背丈の半分ほどしかない老爺がそこにいた。

「遠藤式部殿はおられるか」

もう一度、老爺は云った。

「おう、式部殿か、しばし待たれよ」

老爺が吹き飛んでしまいそうな大声で隆海がそういうと長屋の奥へ焔士郎を呼びに向かった。焔士郎はさっきまで奥でごろごろしていたはずであった。

隆海が焔士郎のいた部屋に入ると既にそこに老爺が端座していた。焔士郎も姿勢を正して座っていた。老爺がゆっくりと隆海を見た。

「式部殿はおられるか」

にこりと笑いながら隆海に云った。隆海は面喰らったが、少してから哄笑した。

「おう、おぬし確か安土で一度見ておる。あの時の老爺であったか」

隆海もどしりと座った。

「無礼仕った。不知火藤兵衛でござる」

「すまぬ隆海、師匠は人をからかうのが好きでな」

焔士郎が隆海に詫びた。無愛想な焔士郎が謝罪を述べたことに隆海は驚いた。

「焔士郎、お主の望み通り、安土から伊賀甲賀の手練れを選りすぐって連れてきたぞ」

藤兵衛が焔士郎に向き直って云った。コクりと焔士郎は頷いた。

「焔士郎、相手は手強いか?」

「…」

焔士郎は暫くの沈黙の後、再び頷いた。

「相手は風魔と戸隠。その両派がそれぞれ屈指の術者を犬山に送り込んできている」

ニヤリと藤兵衛は笑った。

「面白い」

藤兵衛は目を細めて、奥伊賀衆の真髄を風魔戸隠の連中に見せつけてくれる、というと立ち上がった。背丈は隆海の胸ぐらいである。さっきは半分ほどに感じたことに隆海は再び狐につままれたような気がした。

「師匠、奴等を侮るなよ」

「奥伊賀きっての使い手である赤目焔士郎ともあろう者が、臆したか?」

「…」

焔士郎は沈黙した。師匠をじっと見つめている。

「ワシに任せておけ。して焔士郎、お主はどうする?」

「俺は甲州へ向かう」

「ほう」

これは右近を通じて伝えられた光秀の指図でもあった。織田と武田が開戦したため、光秀としては武田と戦をしつつも焔士郎のような忍を用いて勝頼を救わねばならない。さらに欲を言うと妖魔をも討ち果たしたい。風魔戸隠の忍衆を相手にしている場合ではないのである。

「心得た」

そう言うと藤兵衛は立ち上がった。

「して、御坊の名前をまだ聞いておらなんだな」

藤兵衛が相好を崩して隆海に訊ねた。

「これは無礼仕った。拙僧は隆海という拙い坊主でござる」

隆海が丁寧に頭を下げて再び上げると既にそこに藤兵衛はいなかった。隆海は気の毒なくらいに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

「すまぬ隆海。師匠の悪い癖だ。素人相手に術を披露したくなるのだ」

焔士郎が詫びた。

当の藤兵衛は何てことはなく焔士郎や隆海がいる部屋の天井に虫のように張り付いているだけである。藤兵衛は隆海が忍の技に感嘆しているのを見届けると満足した表情をした。そして天井の板を音も立てずにはずすとその中に消えていった。無論、素人にはその気配を察することは不可能である。しかし同類の焔士郎には手に取るように分かる。焔士郎は藤兵衛の気配が遠くになるまで待ってから立ち上がった。

「我等も急ごう。この戦、直ぐに決するぞ」

「心得た」

数刻後、焔士郎と隆海は東山道の道中にあった。

犬山に残ることになった藤兵衛は宿の一室で愉悦を抑えかねていた。東西の忍衆同士がこの犬山で激突しようとしている。奥伊賀の癖のある忍衆を束ね、歴史の暗部のさらにその影の部分を縫うように今まで生きてきた。奥伊賀衆、本来であれば妖魔退治を生業とせねばならない一族であるはずなのに、既にその業は廃れ、表の伊賀衆のような生き方をせざるを得なかった。藤兵衛の一生はそのようにして幕を閉じようとしていた。しかし、先年織田信長によって伊賀が滅ぼされた。それによって藤兵衛等のような奥伊賀衆にも需要が巡ってきた。雇い主が織田家というのがどこかに皮肉を感じさせるが、もともと奥伊賀衆には忠義という観念が低く、己の技倆を高く評価して高い値をつけてくれる相手に雇われるのが常であった。そのため、藤兵衛にも焔士郎にも心に疼痛を感じることはない。

(風魔相手に一暴れしてやろう)

藤兵衛は楽しみでさえあった。数日後、犬山が忍の血で赤く染まることになろうとは当の藤兵衛は露ほども分かっていなかった。


犬山の郊外。

山間の一角に朽ち果てた廃寺がある。瓦は落ち、草木の生えるままになっている。壁も半ば崩れており、人が住むには耐えられない。まさに人を化かす狐狸の棲みかになりそうな廃寺であるが、そのような廃寺であるがゆえに忍の者にとっては格好の隠れ家になり得る。

その廃寺の暗闇の中に一人の男がうずくまっている。顔を怪我でもしたのか包帯が巻かれている。わずかに瞳が除いているだけで顔の造作までは判別がつかない。

その包帯男が、ふと顔を上げた。

いつの間にか目の前にもう一人の男がうずくまっていた。

「道庵か…」

後から廃寺に入ってきたのは紛れもなく道庵であった。

「顔は痛むか?」

道庵が包帯男を案じた。

「痛むわ。顔よりもこの戸隠四天王の一人、蜘蛛糸の朱知の心がな」

蜘蛛糸の朱知。

戸隠四天王最強の男である。先に焔士郎と戦った時、相手を侮り、顔を焼かれてしまっている。そんな朱知を冷厳な眼差しで道庵は見つめている。

「お主の顔を焼いた赤目焔士郎が甲州へ向かった」

その声に朱知は少し顔を上げた。

「それに伴って安土から甲賀伊賀の忍衆が犬山に来ている」

「道庵、何を言いたい?」

「戸隠四天王は甲州へ向かった赤目焔士郎を追ってもらいたい」

やにわに朱知は立ち上がった。

「言われるまでもない」

包帯にくるまれた顔が笑ったようであった。その笑みが何を意味するのか。焔士郎に復讐することの愉悦を押さえかねているのか。

「犬山にいる甲賀や伊賀の忍衆は風魔に任せておけ」

コクりと朱知は頷いた。

次の瞬間、朱知の姿は忽然と消えていた。

驚くべき光景に忍である道庵は動じない。既に道庵はどのようにして犬山に集結している不知火藤兵衛率いる忍衆を撃退するかを思案していた。

廃寺の今にも崩れ落ちそうな屋根の上で朱知は指笛を鳴らした。それを合図にたちまち忍装束を纏った戸隠四天王が集結した。

甲州へ向かった赤目焔士郎を追う」

「赤目焔士郎を殺すのじゃな蜘蛛糸の朱知よ」

「そうだ、蛇蝎針の十三」

「この蟷螂鎌の兼続、腕が鳴るわ」

「兼続よ、赤目焔士郎を侮るな。侮ったが故の朱知のあの顔じゃ」

「蜻蛉羽の青子、いうな」

朱知が喉の奥で笑った。

蜘蛛に蛇蝎に蟷螂そして蜻蛉。戸隠四天王はその異名に虫の名を冠しているようであった。四天王の筆頭である朱知の合図で再び四人は散った。赤目焔士郎を追うためである。

四天王が散ったことを確かめると廃寺から道庵が出てきた。するとそれを待っていたかのように廃寺の正面にある竹藪から一人の武士が出てきた。背の低い武士だった。

「道庵、遠野の忍はまだか?」

「既に信州に入っていると聞き及んでいます」

「左京亮殿は?」

「その後、会っておりませぬ」

「相変わらず、得体の知れぬお方だ」

その時、風が吹いた。雲に隠れていた月が露出し道庵と武士を照らした。その照らされた顔は明智光秀の元で忍を裁量している右近のものであった。


焔士郎は東山道を急いでいる。

織田と武田の戦は早く勝敗が決しそうであった。無論、武田には万に一つの勝ち目はない。既に武田勝頼の声望は地に落ちきっている。織田軍団が信州に雪崩れ込むと争うように武田家にとっての外様である小領主が織田家に靡いている。織田軍団は無人の野を行くが如く信州を蹂躙している。

早く勝頼に接触しないと、妖魔共の思う壺である。

焔士郎は自分でも気付かぬうちに妖魔に対する戦いに身を投じることに疑いを持たなくなっていた。人間とは分からないものである。

木曾谷を過ぎた頃、前方から女性三人に一人の武士という目立つ一行が近付いてきた。

「お」

焔士郎の少し後ろを歩いている隆海も特徴的な一行に気付いたようである。

「艶かな艶かな」

隆海は目を細めて云う。存外、好色な性質なのかもしれなかった。

焔士郎は三人の女性よりも武士の方に気を取られていた。

「あの身ごなし只者ではない」

やがて、一行と焔士郎等がすれ違った。しばらくして、

「あ!!!」

と、焔士郎と武士は同時に大きな声を上げた。

「貴様は迅十郎!!」

「貴様は焔士郎!!」

互いに振り向いて指を指しあった。

「お前、こんなところで何をしている!!」

二人は同時に同じ言葉を吐いた。この二人、存外相性がいいのかもしれず、それよりも二人が何処かで反発しているのは同族嫌悪というものかもしれなかった。

「お前から言え」

二人は再び同時に言った。

「がっはははは!!」

隆海が哄笑しながら迅十郎の肩をバシバシ叩いた。

「痛い」

隆海は痛がる迅十郎を無視して、

「いや、奇縁でござる。奇遇でござる」

と、いいながら笑っている。そして、ぐいと迅十郎の肩を抱き寄せると迅十郎の耳に口を寄せて、

「して、あの麗しいご婦人方はどなたでござる?」

と、聞いた。隆海は迅十郎との再会を喜ぶよりも三人の美女に巡り会えたことの方が嬉しそうであった。迅十郎は諏訪での経緯を簡単に説明した。

隆海が辞儀を正して三姉妹に挨拶をしようとしたが、さっきまで三人いた美人が一人しかいなかった。これには迅十郎も驚いた。長女の雹しかそこにはいなかった。

「?」

迅十郎と隆海がキョトンとしていると、雹が杖に仕込まれた刀を抜いていきなり迅十郎に斬りかかってきた。

迅十郎は雹の一撃を紙一重でかわした。その身ごなしは流れるようであった。迅十郎得意の体術であり、この状態の迅十郎は既に身体の動きを本能の部分に委ねている。

「何奴!!」

迅十郎は拳を構えた。それと同時に宿泊先での艶やかな秘め事に対する希望も消えていった。まさかあの美人三姉妹が刺客であろうとは。

雹は素人とも思えない太刀技で迅十郎に斬りかかる。迅十郎はそれらを紙一重でかわす。

「貴様がまさか、赤目焔士郎の知り合いとはな!!」

雹が鋭い突きを繰り出した。迅十郎は身体を反転させつつ雹の懐に飛び込むと腕を掴んだ。

「狙いは焔士郎かい!!」

迅十郎は掴んだ腕が細く靭やかな女性の腕であることにいささかの躊躇を感じてしまった。本来であればすぐさま何らかの攻撃を繰り出しているはずであった。しかし、女性に対する哀しみが人一倍強い、と自分ではそう思っている迅十郎には雹を傷つけることがどうしてもできそうになかった。

「おい、焔士郎!!お前有名人ではないか!!」

迅十郎が焔士郎の方を向いてからかおうとすると、焔士郎の背後に末女の雪が太刀を抜いて迫っていた。

「先刻御承知」

焔士郎は短く云うと跳躍した。それは雪が太刀を振り上げるよりも早かった。

「!」

雪もすかさず跳躍して焔士郎にすがった。焔士郎は懐から十字手裏剣を取り出すと三つ放った。途中で手裏剣が火焔を帯びる。驚くべきことに雪はその火焔手裏剣を素手でそのうちのひとつを掴んだのである。

これには流石の焔士郎も驚いた。

「貴様の火焔術は私には効かぬ」

雪は空中で太刀を横に薙いだ。焔士郎は空中で回転してそれをかわすと街道脇の崖の上にそのまま着地した。雪も崖の上に降り立った。掴んだ焔士郎の手裏剣を投げ返した。焔士郎も飛来する手裏剣を掴んだ。その手裏剣は驚くほど冷たかった。常人であればたちどころに凍傷になるほどの冷たさであったが、焔士郎は咄嗟に火焔を起こしてそれを防いだ。

氷と焔。

それが雪と焔士郎の忍術である。相性は抜群に悪い。焔士郎は掴んだ手裏剣を傍らに投げ捨てると雪をじっと見つめた。

その様子を迅十郎は見つめていた。ついつい忍同士の凄まじい戦いを目にして雹の腕をつかんでいることを忘れていた。

「他人の事を心配している場合ではない」

迅十郎は掴んでいる雹の腕が冷たくなっていることに驚いて雹の方を振り向いた。雹は掴まれていない方の腕で振りかざした。凄まじい冷気が迅十郎の身体を襲った。迅十郎は二間ほど転がった。急いで立ち上がると迅十郎の一張羅が凍りついていた。

「こいつら冷気を操る忍か!!」

「遅い!!」

再び雹が腕を振り上げると、氷の礫が迅十郎を襲った。無数の氷の礫である。その一つ一つが鋭い刃のようであり凍えるような冷気を帯びている。迅十郎は身体を仰け反らせて氷の礫をかわしたが、避けきれなかった。いくつかの礫が迅十郎の腕を貫いている。

「ちっ!」

迅十郎と雹は同時に舌打ちをした。迅十郎は避けきれなかった悔しさからであり、雹は仕留めきれなかったことに対してである。正直迅十郎は困り果てていた。相手が術によって氷の礫を放つのである。迅十郎得意の柔術や空手の術は相手に近付かないと効果を当然ながら発揮しない。

(相性が悪いぜ…!)

「迅十郎殿!!」

隆海が迅十郎を案じて駆け寄ってきた。いや、しようとした。

「私の存在を忘れてもらっては困る!!」

隆海の頭上から次女霞が太刀を突き刺すべく降ってきた。殺気に気付いて隆海が上を見上げた時には霞の太刀が眼前に迫っていた。

「うおうっ」

ごつい身体に相応しくない敏捷な動きで隆海は咄嗟に六角棒をかざした。黒光りする六角棒に霞の太刀は弾かれたが、霞は空中でひらりと体勢を整えると鮮やかに着地した。

「姉上、こいつら意外と侮れませぬ」

「ええ」

「それぐらいでなくては困ります霞姉さま」

最後は焔士郎と対峙している末女雪の言葉である。三人は同時に衣服を忍装束に改めた。

焔士郎は忍装束に改めず、すらりと腰の太刀を抜いた。

隆海も腰を落として重そうな六角棒を構えた。しかしその目はどこか悲しげであった。隆海も美人相手に戦うことにいささかの躊躇を覚えているのであろうか。

迅十郎は腕の氷柱を抜いた。拳を保護するために装着している防具の為に傷はたいしたことはない。しかし、腕が冷気によって感覚が鈍くなっていた。

「どうした、抜かぬのか?」

雹がじりと迅十郎に詰め寄りながら挑発した。

迅十郎は考えていた。飛び道具を使う相手に対していかに戦うか。これまでいくつかの経験がある。その場合、今までどのようにして生き延びてきたか。

(これだ!)

迅十郎は姿勢を低くして雹に向かって駆け出した。飛び道具を使う相手に対しては先の先を制するしかない。案の定、雹はたじろいだ。

迅十郎は雹の懐に飛び込むとみぞおちめがけて拳を繰り出した。雹は咄嗟に太刀で防ごうとしたが、仕込み刀ゆえに通常の太刀に比べると脆かったため、迅十郎の拳によって文字どおり叩き折られた。

(ちっ!)

迅十郎はなおも攻撃の手を緩めない。回し蹴り、突き、肘打ちを立て続けに流れるように雹にあびせた。雹は防戦一方となった。迅十郎は雹に術を練る暇を与えれば再び氷の礫が襲いくる為に攻撃の手を緩めるわけにはいかなかった。

遂に雹は崖縁に追い込まれた。

「何故殺さぬ」

雹は迅十郎を睨み付けた。確かに迅十郎は体術だけで雹を追い詰めた。止めを差さない迅十郎は雹にすれば奇怪であったであろう。しかし、それが不抜の迅十郎のスタイルであることを知らなかった。

「女を殺すのは趣味じゃない」

「何を言う!」

迅十郎はしばらく雹の顎に拳を向けながらじっと相手の顔を見つめていたが、やがて拳を納めて雹に背を向けた。隙だらけになったといっていい。

「おのれ!!嬲るか!!」

雹は逆上したが、既に氷の礫を放つ気力は残っていなかった。迅十郎の背中が途方もなく大きくみえてしまっているということもあった。

負けた。

その場に膝をついてしまいそうになることを懸命に雹は耐えた。

「霞、雪、退くわよ!!」

雹が二人の妹に声をかけたとき雪は既に焔士郎に攻め立てられていた。焔士郎も迅十郎同様、相手に術を練らす暇を与えないほどの斬撃を浴びせていたのである。通常の兵法である剣術に忍の技を加味した変則的な太刀筋である。迅十郎も崖の上で繰り広げられる忍者同士の太刀打ちを油断なく見つめている。窮した雪は大きく跳躍すると姉の傍らに着地した。その跳躍に既に戦意を喪っている事を悟った焔士郎はあえて追おうとはしなかった。ふん、というと刀を納めた。

「姉上」

「ここは退く。赤目焔士郎、次はないと思え!」

雹が捨て台詞を残して雪と共に崖下に消えていった。

「焔士郎さんよ」

「・・・」

焔士郎は迅十郎に声をかけられたが黙っていた。だが、崖上から街道へひらりと飛び降りると迅十郎の方を向いた。

「迅十郎、まだ終わっていない」

確かに次女霞と隆海はまだ対峙したままであった。霞は姉と妹が先に逃げたため少し焦っていた。落ち合う所は決まっているためはぐれるということはなかったが、目の前のただの僧侶が意外に侮れない。忍に対する戦い方に慣れていた。霞は念を込めた。その気配を敏感に察したのか隆海は六角棒を構え直した。するとたちまち隆海の周囲に白い靄のようなものがたちこめてきた。

「む!」

隆海がまずいと思った時には遅かった。三間ほど離れた所にいたはずの霞はおろか、一尺先も見えないほどの霧に包まれてしまっていた。いや、その名の通り霞と言うべきか。

「おい、放っておいていいのか焔士郎」

迅十郎が周囲に立ち込める霞に少し慌てたが、焔士郎は平静を保っていた。焔士郎はずるい。あえて助太刀をしないつもりでいる。隆海の腕を信頼しているということもあるが、これで隆海の正体のほどが知れると思っている。焔士郎は隆海が敵であるとは思っていない。しかし、ただの高野聖とどうも思えない。

(さあ、隆海どうする)

焔士郎は少し意地悪く成り行きを見守るつもりであった。一方の見守られている隆海は焔士郎の想像通り全く困惑していなかった。

「これは術でござるかな。なれば慌てても仕方がない」

隆海はそういうと座って座禅を組んだ。六角棒を傍らにずしりと置くと瞳を閉じると言葉低く真言を唱え始めた。

般若波羅密多・・・。

隆海が低く唱え始めると既に隆海の背後まで迫っていた霞は不思議と隆海の気配を感じられなくなってしまった。

「これは・・・」

霞がふと我に帰って周囲を見渡すと真言曼荼羅の世界が広がっていた。霞の忍術は霧を用いた幻術にある。しかし、霞は術をかけたつもりが逆に隆海の術に陥ってしまっている。それに耳の奥で鳴り止まぬ隆海の真言が不思議と心地よく、眠りに誘い込まれそうであった。

隆海は霞に幻術をかけるつもりはなかった。ただ、霞のような目眩ましを用いる相手にはこのようにいつも真言を唱えるのである。隆海自身、真言の功徳など恐らく信じていない。何となく修行して身につけた修法が何となく忍や妖魔相手に不思議と有効であるため用いているだけである。不信心と言えばそうとも言えるし、真言を唱えて霞を逆に目眩ましにかけるほどであるため法力は侮れない。それ故に信心の為せる業とも言える。隆海自身も不思議な気持ちであろう。

一方の霞は曼荼羅の世界で呻いた。体が動かない。

「この私が幻覚など!!」

霞が心中で叫んだ瞬間、隆海はかっと眼を開いた。

「むんっ!!」

六角棒を天空に掲げてからズドンと地に突き刺すと衝撃波が隆海の周囲に迸った。霞は体が動けないままその衝撃波をまともにみぞおちにくらい、気を失ってしまった。霧が晴れていく。術者の霞が気を失ったためであろうか。

「お?」

迅十郎が目敏く倒れている霞を見つけた。ごつい体の隆海の後で倒れていた。隆海は焔士郎の視線で背後に倒れている霞に気付いた。

「さて」

と、言うと隆海は立ち上がると倒れる霞をひょいと軽々と担いだ。

「おい、隆海。その女刺客をどうするつもりだ?」

「この先の宿で解き放つでござる」

「連れていくのか?」

驚いたのは焔士郎である。思わず溜め息をついてしまった。

「哀れではないか、たまたま敵であっただけで我等この女性に恨みはなかろう」

もっともである。やむなく焔士郎は隆海に従った。

「さ、宿場へ急ごう」

隆海は霞を担いだまま歩き出した。

「おい、お前どうするつもりだ?」

焔士郎が迅十郎の襟首を掴んだ。迅十郎は既に歩き出そうとしていた。

「どこへ行こうと俺の勝手だろうが」

迅十郎が焔士郎の手を邪険に払った。

「なんとか言ってやれよ、兵衛」

迅十郎の腰におさまっている刀に憑依している兵衛は先刻より黙りこくっている。

「どうした兵衛?」

「おい、焔士郎に隆海よ」

兵衛はしばらくの沈黙のあと、焔士郎と隆海の名を呼んだ。

「おい、俺を無視するんじゃねえ」

迅十郎が兵衛に食ってかかったが兵衛は構わずに続けた。

「妖魔どもの真意が分からぬ。それに先程のクノイチども。あれは人間ではないか」

「妖魔に誑かされている忍がいるのでござろう?」

「応仁の頃に忍同士が相争った過去がある。未だにその時の禍根が絶てないでいるのさ」

隆海と焔士郎がそれぞれこたえた。

「急がぬと、奴等に先を越されるぞ。こいつをもっと有効に使え」

「言われぬともそうするつもりだ」

焔士郎が兵衛に言われて再び迅十郎の襟首を掴んだ。

「おいおい、勝手に話を進めるんじゃねえ!」

迅十郎は再び焔士郎の手を払おうとしたが、今度はどうなっているのか容易に手を払えなかった。

「お前のような妙な奴にうろうろされると迷惑だ。たまには兵衛の言うことに従え」

「けっ!」

悪態をつきながらも迅十郎は内心ほっとしていた。何故ならこれで道に迷うことがなくなるからである。兵衛の真意も案外そんなところにあるかも知れなかったが、焔士郎にとって武田勝頼を落ち延びさせるには一人でも多くの手練れが必要だった。

「ご両人、急ごう。この女性が気の毒でござる」

隆海が焔士郎と迅十郎を急かした。